9/14/2024
古代中国における道教の思想が発祥の「庚申信仰」もその一つ。
そしてそれはもう日本全国、あらゆる文化や伝統や風習や信仰のみならず日本語自体に浸透してるので、神の御加護がある限りその呪縛の解除は不可能だったんですよ。一時的に解除してもすぐまた縛られちゃうので。
9/06/2024
9/16/2024
Sep 15, 2024
東京・大田区のアパートで火事があり、男性1人が死亡したほか、別の男性もけがをしました。 警視庁と東京消防庁によりますと、きょう午前1時ごろ、大田区久が原のアパートで「煙が出ている」と119番通報がありました。 消防車など21台が出動し、火はおよそ2時間後に消し止められましたが、アパートの2階の部屋などおよそ30平方メートルが焼けました。火元の部屋から男性1人が助け出され、病院に運ばれましたが死亡が確認されたということです。 また、この火事でアパートに住む別の男性も煙を吸って病院に運ばれましたが、命に別状はないということです。 火元の部屋に1人で暮らしている80代の男性と連絡がとれていないということで、警視庁などが身元の確認を進めています。
この❝庚申信仰❞は、古代中国における道 教の思想が発祥とされ、人の体内に住む三 尸という虫が庚 申の日の晩だけ宿主が寝ている間に抜け出し、天帝(神)に宿主の悪事を報告して寿命を縮めてさせ てしまうと考えられたため、庚申の日は寝ずに過ごして三尸の脱出を防ぐ「守庚申 」が行われました。 日本でも平安時代には上流階級の間で広まりますが、厳 粛 げんしゅく な内容ではなく夜更かしを❝楽しみ❞と捉えて徹夜で詩歌や歌舞 、飲酒に興じるものでした。室町時代以降は仏僧などの布教により宗教色を帯 びた民間信仰として浸透し、庚申待を行う単位として「庚申講 」が地域ごとに結成されていきました。 この庚申講の人々によって、庚申塔は建てられたのです。 江戸時代になると、人々は神仏への崇敬の念を示すほかに、徐々に自身や地域の息災を願う意味も 込めて塔を建てるようになりました。中には、ほかの石塔・石造仏の役割も兼ねて道 標や境界を示す ものや、富士信仰と習合して富士山を彫ったものも現れます。庚申待についても、宗教行事というよ り娯楽的な要素が強かったため、都市部よりも娯楽の少ない農村部で流行していきました。大田区域 では98基の庚申塔が現存していますが、海側(東海道沿い)である大森 おおもり 、糀谷 、六郷 、羽田などの地 区には少なく、台地上の千束、馬込 、雪谷 、久が原 、嶺町 、鵜の木など旧農村部に多い傾向がありま す(次 頁 ページ の分布図参照)。 また、大田区における庚申塔の大きな特徴として、日蓮 にちれん 宗 しゅう の特色を持つ塔が見られるという点があ ります【分布図の●印】。これは在地の庚申講に日蓮宗が影響を与えたということではなく、日蓮宗信徒が塔を建てたことによります。つまり、区内には日蓮宗大本山である池上本門寺【分布図の○印】 があったため、周辺住民もその多くが日蓮宗信徒となり、集団で題目 だいもく (南無 な む 妙 法 みょうほう 蓮華 れんげ 経 きょう )を唱える 「題目講」を結成する一方、同じメンバーが庚申講も兼ね、庚申塔を造立したのです。日蓮宗系庚申 塔の特徴としては、題目を彫った塔【いわゆる鬚 題目、次頁写真①】や、特に日蓮宗で尊崇される帝 釈 天 を前述の「天帝」と同一視し、その名前を彫った塔【次頁写真②】などが見られます。
久が原西部八幡神社の由緒
久が原西部八幡神社は、天平神護元年(765)久が原の高所に創建したといいます。江戸時代に久が原が馬込領と六郷領とに二分され、当社は六郷領の鎮守として奉斎、明治6年村社に列格したといいます。
「大田区の神社」による久が原西部八幡神社の由緒
神護元年(七六五)九月勧請せられ、久が原台地の住民の鎮守として尊崇せられ、徳川入国以来、久河原は二分され、当社は六郷領鎮守として尊崇された。本殿は天明未七年(一七八七)四月氏子により再建されたものである。(「大田区の神社」より)
新編武蔵風土記稿による久が原西部八幡神社の由緒
(久ヶ原村)八幡社
除地6畝28歩、村の中央にあり。本社2間四方、拝殿2間に2間半。前に鳥居あり、両柱の間1丈。村の鎮守、祭礼9月14日15日両日なり。社地の外八幡免とて畑2段8歩、小名南台にあり。安詳寺持。
稲荷社、本社に向ひて右にあり。(新編武蔵風土記稿より)
境内石碑による久が原西部八幡神社の由緒
神護元年九月(七六五年)豊前の国宇佐八幡宮の御分霊を勧請、武蔵の南端久が原台地(弥生時代の集落地)の住民の鎮守として、尊崇せられ、徳川入国以来、久我原は二分され、当社は六郷領鎮守となり、明治六年(一八七三)村社に指定された。旧社殿(銅萱葺権現造五二、八九平方米)は、文化七年七月約百七十年(一八一〇)前の御造営にして、長年月を経しより、諸所に朽損の箇所多く、今度氏子の奉賛により、新らしく社殿が御造営され、且つ篤志家の奉納により手水舎をはじめ境内工作物、殿内調度備品等一切が完備した。(境内石碑より)
現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
庚申と三尸説
詳細は「庚申」を参照
中国道教の教説である三尸説とその行事の守庚申が日本に伝来して、習合と複合して広まった[1]。庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く平安時代に移入された[2]。
歴史
庚申経(老子守庚申求長生経)が三尸説や守庚申を記述していて、平安時代に伝わり、庚申信仰の原点となったと推定されている[3]。これは、天台僧の成尋が唐留学時に覚書として集め、園城寺(三井寺)に唐から送り納めた資料だとされている[2]。
遣唐使に伴い唐に留学したが、上陸して唐朝に短期留学の請益僧だと制限強化で天台山行きを拒否されて遣唐使一行から離脱し、中国内を山野と庶民間と寺を独自に旅して修行して学んだ円仁が、『入唐求法巡礼行記』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人は咸く睡らず。本国の正月、庚申の夜と同じきなり。〉と中国の僧侶、貴族だけではない庶民も含めた、冬至の夜に眠らずに過ごす風習を見て日本の正月や庚申の夜のようだと、言及している[4][5]。
平安時代の貴族社会では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す後に「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称された宴をはるのが貴族の習いであった。最も早い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられている[6]。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していた。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなった[7]。鎌倉時代から室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたとある[注釈 1]。
やがて守庚申は、庚申待と名前を変え15世紀中期頃から、会食談義を行って徹宵するが、いっぽう本尊を礼拝し、仏教的な勤行を行うようになる。その時期は、初見の庚申待板碑が、文明3年(1471年)の造立で、室町時代の文明年間(1469年-1487年)を少し遡る頃と推定される[8]。
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、愛知県豊田市の金谷庚申三光寺の蔵している庚申縁起では寛仁4年(1010年)で、そのころに、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が天台宗の僧侶の手で作られたとみられる。内容は、四天王寺庚申堂の由来を語る形式で趣旨と実践の啓蒙書でもあり、その始まりを大宝元年(701年)正月7日に尊記上人への青面金剛からの掲示によるとした。四天王寺庚申堂から口授で各地へ伝承され、庚申信仰は仏教と結びついて広まったが、特定神仏を選ばず本尊含めて多くの神仏と習合した[9]。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めるが各地庚申堂で本尊は違い、行いを共にする「庚申講」が組織された。そして、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した[10]。
また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。 庚申信仰では、もともと猿が庚申の使いとされ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をもってその神体とした庚申堂もあったが、やがて青面金剛が本尊とされ、三猿は脇に置かれるようになった[10]。庚申塔も三猿だけだったが同様に脇に添え描かれた[11]。
庚申の権能は各地で違うが、多岐にわたり、豊作、招福、厄除け、家族、和合・良縁、建築、健康長寿、病除け、土地・道、諸芸、の神とされ現生利益が求められ祈られた[12]。他に、男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もあった[13]。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。 このころには宮中でも、延宝4年(1676年)医師黒川道祐の『日次紀事』正月巻に、宮中の庚申の夜ごとに庚申の本尊として青面金剛に酒や菓子を供え、殿中の男女が飲食と御遊するという形式へと変化したとある[14]。
しかし、江戸時代後期に衰えを見せ、庚申塔は寛政8年(1796年)には近畿地方の庚申信仰発祥の北摂などでも、すでに珍しいものとなり(『摂津名所図会』)[15]、山形県寒河江市所在のものが現存最古である[16]。明治時代初めに路傍の石仏祠石碑や基礎となった修験道が禁止され、以降には生活の変化とともに急速にその信仰が失われた [17]。
この夜慎ましくして眠らずに過ごすという習慣は、一部の地区で受け継がれている。また地域によっては、人々が相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。臨時のイベントとして行われることもある[18]。
青面金剛、猿田彦神
庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという[19][20]。 石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという[21]。
庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという[22]。
庚申信仰に関連するおもな寺社
「庚申堂」も参照四日市市松原町の三岐鉄道の敷地内に庚申社という祠がある。祠の中には御神体が安置されている。1959年9月、地元の人々の篤志によって社殿が改築された[23]。四天王寺庚申堂(大阪市天王寺区) – 日本三庚申、庚申信仰発祥の地で、江戸時代大本山として庚申堂建立許可を出していた[24]。
八坂庚申堂 大黒山金剛寺庚申堂(東山区金園町) – 天台宗。日本三庚申[25]、京都三庚申。
粟田口庚申堂 尊勝院 内(東山区粟田口三条坊町)。京都三庚申[26]。
猿田彦神社 (京都市上京区)(上京区上御霊前町)山ノ内庚申と呼ばれ、年6回庚申日祀られる[27]
尭山山金輪院(小泉庚申堂)(大和郡山市小泉町) – 大和国の庚申信仰の本山、天台宗[28]。
庚申堂(ならまち庚申堂、庚申さん)(奈良市西新屋町)[29] - 身代わり申[30]。
巣鴨庚申堂、巣鴨庚申塚(豊島区巣鴨四丁目) – 附近には庚申塚駅がある[31]。
柴又帝釋天 題経寺(葛飾区柴又) – 日蓮宗。江戸期の1779年(安永8年)の本堂の改修工事中に行方知れずだった帝釈天像の版木である板本尊が発見された。たまたまその日が、暦上の庚申の日であったことから、以後60日毎の庚申の日が縁日となり、当時隆盛であった庚申信仰を背景として広く知られたという[32]。
金剛山庚申寺庚申堂(静岡県浜松市浜名区宮口) – 禅宗。
劔神社庚申堂(福井県丹生郡越前町織田)
庚申社(三重県四日市市JR富田駅前)
石川県金沢市寺町寺院群静音の小径天台眞盛宗西方寺(青面金剛明王 庚申さん)
庚申堂(土岐市泉中窯町) - かつて窯組の信仰の中心であった[33]。
庚申社 劔神社(福岡県直方市山部) – 寺院であり神社[34]。
喜宝院庚申堂(入谷庚申堂) - 廃堂され現存しない、東京都台東区下谷2−13−14 小野照崎神社境内に庚申塚、青面金剛など遺跡が残る。元日本三庚申[25]。
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都電の駅にもありますな
返信削除おばあちゃんの原宿通りw
近所に庚申さまありますね
返信削除自らに当てはまり呪いが至るところのありすぎて
恐ろしくて最近はコメも憚れるw
英語頑張ろうw
返信削除パッケージ屋段ボール箱売り場のアパートの2階です。
このアパートの一角は、老人ひとり暮らしのアパートが密集しておるところで、平成27年6月1日から10月10日にかけて、4人立て続けに年寄りが孤独死しております。 孤独死がこのあたりではあまりに普通なので、さすがの大島てるも、これ以上、載せてもしょうがない、とやめちまった地域らしいので、おそらくは、この10年の年寄り孤独死の数は相当な数に達するのではないかと思われます。
織田七庚申
返信削除織田家の発祥地の劔神社(織田明神)は、劔大明神馬場庚申宮があって、織田七庚申の一つ
「文武天皇の御代に疫病が流行、護摩祈祷をしたところ青面金剛が現れ疫病を鎮めると約束 その年が庚申の年、庚申の月庚申の日だった」「猿田彦の命と組み合わされ」
織田は、この越前国二宮の劔神社の神主の家のでであり、庚申待は宗教儀式でもあったのだが、単なる飲み会と軽くみた光秀に信長が立腹し、鑓の穂先を喉元につけたことが、本能寺の変の伏線になったらしい。
行進信仰w
返信削除運動会でも祭りでも
すぐにマーチングしたがるw