〈北九州・中学生2人死傷〉資産家一族“ボンボン”だった平原容疑者(43)逮捕前は“ゴミ屋敷”に引きこもり…3日連続で「カツ丼」を注文
2024年12月20日 21時29分
集英社オンライン
北九州市小倉南区のマクドナルド店内で中学3年生の男女を刃物で殺傷、福岡県警に殺人未遂容疑で逮捕された同区長尾の無職・平原政徳容疑者(43)。自宅周辺では度重なる奇行から「危険人物」と認識されていた中年男は、大地主一族の家に生まれたスーパーボンボンだった。
あれだけ土地を持ってたら億を超える資産を持っていたと思います
平原容疑者はかつて、北九州モノレール守恒駅付近のマンションに住んでいた。
平原容疑者の現住所からは東北方向に約2キロで、犯行現場の「マクドナルド322徳力店」は概ねその中間地点に位置する。そして平原家は守恒駅付近一帯の大地主の一族として、地元でよく知られていた。同駅近くに住む女性は取材にこう語る。
「もう20年近く前だと思いますが、平原容疑者の両親は、近所でガソリンスタンドを経営していましたよ。住んでいたマンションにはご両親と娘さん2人と平原容疑者、昔はおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に暮らしていたはずです。
もともとはそのおじいちゃんがこのへん一帯の地主さんで、それを継いで平原容疑者のお父さんとその兄弟がそれぞれマンションを持っているみたいな資産家ですよ。ただ、平原容疑者のお父さんはお酒で体を悪くして肝硬変でだいぶ早くに亡くなっています。
お父さんが亡くなってからはガソリンスタンドもたたみ、今の長尾の家にお母さんと容疑者で住んでいると聞きました。平原家と言えば近所にある病院の土地も平原家のものですし、あれだけ土地を持ってたら億を超える資産を持っていたと思います。お金自体はたくさんあるわけですから、私なんかからするとあんな事件を起こさないでもいくらでも楽しく生きられたと思うのだけどね……」
実際に登記簿謄本で確認できるだけでも、同駅周辺に一族が所有する不動産は10筆を軽く超える。土地は数百平方メートルから千平方メートルを超えるものもあり、建物は鉄筋コンクリートのマンションが複数存在する。
そして、平原容疑者の現在の自宅は1999年に新築した木造瓦葺き2階建で、延床面積は150平方メートルを超え、土地については2006年に母親とみられる人物から贈与を受けて所有権を保存している。同モノレールの最寄駅で言えば、犯行現場のマクドナルドに近い「徳力公団前駅」を挟んで2つ目の「徳力嵐山口駅」になる。
3日連続で「かつ丼」を注文
そして平原容疑者は逮捕前日の12月18日水曜日、近くの蕎麦屋に出前を頼んでいた。男性店主(65)はこう言いながら首をすくめた。
「いや、冗談でなんだけどさ『あの人が犯人じゃないの』って話をしてたんだよね。それくらい異様な雰囲気だったから。出前を頼んできたのは今週の月曜日が初めてで、その時はざるそばとカツ丼。翌日の火曜日もざるそばとカツ丼。そして逮捕前日の水曜日はごぼう天うどんとカツ丼、それにおにぎり2つを出前で頼んできた。
いつもより多いのは夜食のつもりだったのかもしれないし、本人なりの最後の晩餐だったのかもしれない。頼むのはいつも昼間で、最後の日も昼間だったけど多めだったから夜食に回すのかなって思ったんだ。出前の電話もボソボソと小さい声でしゃべっていたみたいだけど、俺が出前を持って行った時も一言も話さない。目も合わせないで無言で受け取り、財布からお金を出して渡してくる。
こちらから『じゃあ大将、器だけ外に置いて出しておいてください』と声かけても、無言でうなずくだけ。ただ、外の様子を伺ったりとか気にしたりとかそういうのはなかったな。料金は1500円くらいで最後はそれにおにぎり代をプラスしたから1700円ぐらいだったかな」
守恒(もりつね)は、福岡県北九州市小倉南区の地名。狭義では守恒、守恒本町、星和台、山手、葉山町を中心とするが近隣の徳力新町や北方5丁目周辺を含めるケースもある。
地理・概要
小倉南区北西部の国道322号を挟む丘陵地域にあり、北九州モノレールで小倉駅からおよそ12分で到着する。
かつては「森津根」と呼ばれる森林地帯であったが、日本住宅公団(現・都市再生機構)により徳力団地が建設されたことを契機として宅地開発が進められ、国道322号旧道の西側は1973年から99年に渡り行われた徳力土地区画整理事業と北九州モノレールの整備により計画的に住宅やマンションが林立。東側は山を切り開いて開発され、1979年10月に開業したニチイ徳力店(現:マルショク新守恒店)と1980年7月に開業した徳力アピロス(現・サンリブもりつね)の2つの商業施設を中軸に発展していったが、乱開発のために起伏が激しくなっている。
モノレール開業とそれに伴う国道322号のバイパス整備で小倉市街へのアクセスが飛躍的に向上すると、転勤により転入してきた富裕層が多く居住する人気の地域となった。徳力団地との違いは、世帯向け分譲団地や賃貸マンションが多く立ち並ぶ点が共通する一方で、市内において特に治安が良い点、校区の学力が高く教育に向いている点、家賃水準が高く富裕層向けという点である。
(高柳 (柏市)から転送)
➡大久保
小沢一郎と朝鮮の影 母親の実家についた朝銀の担保と出生の ...
https://www.tamanegiya.com › ura › ozawatyousenjin
2015/02/01 — ... 風早村(中略)に、元庄屋、荒木儀助の四女として生まれた。 略) 父儀助は、千葉県議会議長もやった地方の名望家だった」 と書かれていて、小沢一郎の母親 ...
日本一新の会。 ◎「日本一新運動」の原点―169
返信削除...「かの」の母が美人のハーフで、「かの」の名の原案はモンブラン氏が「カノン」と名づけたもの。また、モンブラン氏は風早村の金山地区に葡萄を植え、〝葡萄酒〟を造っていたとの話も残されている。荒木家に〝葡萄酒〟をつくる技術を教えた話もある。
https://web.archive.org/web/20170803191801/http://nipponissin1.blog136.fc2.com/blog-entry-272.html
314w
削除>守恒 富裕層が多く居住する人気の地域
返信削除(守恒クルドサック(風))
https://x.gd/h8D4x
(クルドサック)
住宅地における宅地割りの際に袋小路状の道路(図参照)を造るものである。フランス語で袋小路(cul:尻、sac:袋)を意味する。
東京都板橋区の常盤台、神奈川県横浜市青葉区の美しが丘(たまプラーザ)
(常盤台クルドサック)
https://ameblo.jp/souvenir-saison/entry-12494773723.html
田園調布にすらないクルドサック(風)が修羅の国にあったとは、、
防犯と景観とプライバシーと三拍子そろっていて、貧民どもが入り込もうにもびびってしまいそうなクルドサック(風)ですが、地主のボンボンには通用しないわけで
あと、守恒クルドサックで(風)をつけたのは、ロータリーの島がない廉価版だからw
ときわ台 駅前見てみるとヨロシww
削除日本の政治社会が歪んでるのは、
返信削除過去の悪行?を背負っている
地主さんによるといっても
過言でなしwww
引用いただいたサイトのコメがおもろかったので転載ww
返信削除(前略)
沼南村(現柏市)の荒木家は庄屋じゃなく江戸時代から続く名主だよ。千葉氏ではなく相馬方の武将の出だどうだ。
元千葉県会議員荒木儀助は議長などしていない、県会議員だがかなりの人物で大物だったそうだ。小沢の親父の佐重喜が大臣になりましたと言っても儀助にはペコペコで頭が上がらず、沼南の本家に来てもお勝手で女中とお茶着けを啜っていたそうだ。オレのお爺ちゃんは土佐高知の出身で中濱万次郎の直系じゃない子孫だそうだ。
オレのお婆ちゃんは戦前、九段の精華高等女学校に行っている。
男兄弟は軍医中尉で玉砕している、弁護士等の兄弟もいる。
オレの姉は英国のロスリンハウスカレツジに留学し、あの麻生太郎の妹君、信子殿下様と同級生で、姉の亭主は東芝本社火力水力発電事業本部長という立場、その父親も祖父も東大法卒で旧通産省高級官僚で吉祥寺に住み、あの菅直人の直ぐ近所で、姉曰くすげ~小さい家に住んでるちゅーてた。
一族の中でもオレだけが出来が悪い鼻つまみ者なんだよ。
因みにオレの母親は明大法卒で演劇部に所属して、高倉健とか大平とおるとかと親交があった。
オレの母親は亡くなったが、小沢とは兄弟の様にしてた。故・母は軽井沢三井の森に別荘を所有しており、近所に皇太子妃雅子殿下のお父上、小和田元国連大使様が別荘をお建てになり、以前だが御病気気味の皇太子妃雅子殿下と親王殿下愛子様は隠れ住む様にして永いこと御滞在になられていた。当時近隣別荘住人には箝口令がださて、オレはじめ近隣住人は極秘にしていた。
その当時、麻生太郎の御妹君信子殿下様も髭の殿下がガンを御患いになり、ノイローゼ気味となり、ズツーと相馬元伯爵様の別荘に御滞在になられておられた。
荒木 氏綱(あらき うじつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣。丹波国多紀郡荒木城主。
返信削除生涯
丹波の有力国人・波多野氏に仕えた。
天正5年(1577年)11月、丹波攻略を目指す明智光秀は多紀郡の東口に位置する籾井城・安口城やその他敵対する多紀郡内の城11か所を落とし、それらに拠っていた者たちは「荒木・波多野両城」に逃げ込んだという。
天正6年(1578年)4月、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀の軍勢が荒木城を包囲し、水の手が止められたことで城は落城した。降伏後は明智光秀に従ったとみられるが、氏綱は光秀からの仕官要請を断って、代わりに子の氏清を出仕させたともされる。
『本城惣右衛門覚書』によると、荒木城での戦いの際、荒木城には波多野秀治、赤井忠家、本城惣右衛門とその父が加勢していた[。また、明智光秀の配下となった氏綱は、天正7年(1579年)8月の丹波攻略終了までの間に大山城(丹波篠山市大山)に入っていた時期があったらしく、明智方の城を攻撃した惣右衛門らに対し、大山城より200から300の軍勢を送ったとされる。
その後、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して、『太閤記』には息子2人が明智秀満に従って大津で討死したとあり、『武家事紀』には父子4人が瀬田で戦死したとある。信憑性は落ちるが、『新撰豊臣実録』では氏綱は明智秀満の計らいで坂本城から脱出したとされており、死亡時期については諸説ある。
氏綱の子・高兼は山崎の戦い等で戦死したが、その娘が秋田実季の正室・円光院に仕えて実季の子を産んだことで、高兼の息子・高次も秋田家に取り立てられた。氏綱の来孫(高次の曽孫)で陸奥国三春藩の重臣である荒木高村の嫡男は、藩主・秋田輝季の養子となり、三春藩4代藩主・秋田頼季となった
千賀地城跡は伊賀市花垣にあります。
返信削除千賀地服部家は元は荒木服部だと言われていますが源平の合戦の時、千賀地服部の祖、
服部家長は平家側につき壇之浦まで行き、生き残りますが服部地区には戻れず
隠れ里の花垣郷与野に移り住み地名の千賀地と名乗った。
服部半三保長は十二代将軍足利義晴に松永久秀を介して千賀地から京都に出仕した。
出国にあたり保長、当時三才の嫡子、保元を妻の実家である紀州、保田栄西(楠木正成の縁辺といわれる)の養子として保田家に送った。
保元の嫡子則直は長男則宗に保田家を継がせ予野に帰り五男元則に千賀地服部家を継がせた、
元則は大坂の陣で活躍、後に藤堂釆女家になり伊賀藤堂藩家老職を戴く
「日本書紀」にみえる百済(くだら)(朝鮮)の王族。
仁徳(にんとく)天皇41年(推定353年)紀角(きの-つの) 宿禰が百済につかわされたとき, 紀角に百済の王の族にあたる酒君が礼を示さなかった。そのことで紀角が百済王を責めると、王は鉄の鎖で酒君を縛り捕らえ,日本におくられた。その後罪をゆるされ,43年天皇から鷹の飼育を命じられた。鷹甘(たかかい)部のはじまりという。
応神天皇の時代(270年~310年)呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。ゆえに 呉服部、漢服部と書く。呉機織り部(くれはたおりべ)この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの場所を服部という。そこを流れる川を前半を取って「くれは川」地名、姓は後半を取って「服部はっとり」としました。
伊賀市服部に小宮神社(おみや)がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。
服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/202104110000/
ともかく、かの、荒木又右衛門とつながりないことだけは分かったw
返信削除あはは 爆
削除おもしろいですね お縄さんのように渡来系にろくでもないのが
返信削除いるのは解りました 今後も起こるのですね 困ったものですね
流れ弾に当たる人もでてくるだろうし
渡来系の血が入っている方、
削除貴殿含めて多数、の可能性w
あわてちょりますなw
返信削除余計なことしないと
尻に火がついてwwww