11/07/2024

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杜 祖健(と そけん、英語Anthony TU (アンソニー・トゥー)1930年 - 2024年11月1日)はアメリカ化学者コロラド州立大学英語版名誉教授、元千葉科学大学教授毒性学および生物兵器化学兵器の専門家として知られ、松本サリン事件解明のきっかけを作った。

経歴

1930年薬理学者・杜聡明の三男として、台北市で生まれた。父も毒物の研究者であり、中国革命完遂のため袁世凱コレラ菌で毒殺しようとしたこともあった[2]。台北市樺山小学校、台北一中を経て[3]台湾大学理学部に進む。1953年に大学を卒業。

大学卒業後はアメリカに渡り、ノートルダム大学スタンフォード大学エール大学化学生化学を研修。ヘビ毒に関する毒物研究を専門とした[4]1957年に日系アメリカ人女性と結婚[5]ユタ州立大学で教職を得て、1967年コロラド州立大学に移籍。1992年、天然毒素専門の出版社「Alaken, Inc」を設立[6]1998年にコロラド州立大学を退任し、名誉教授となった。2004年、千葉科学大学に創設された危機管理学部の教授に就任。順天堂大学の客員教授も務める。また、日米平和・文化交流協会理事も務めている。

2024年11月1日の夜、ハワイで死去。94歳没[7]

趣味ピアノの演奏。日本領有時代の台湾で教育を受けている関係で、流暢な日本語を話すことができる。

受賞・栄典

研究内容・業績

オウム真理教事件解決との関わり

  • 松本サリン事件が起こった1994年、日本の化学専門誌『現代化学』の依頼で、論文「猛毒『サリン』とその類似体」を寄稿した。その中の「土壌中のサリン分解物によるサリンの検出法」に注目した警察庁科学警察研究所(角田紀子所長・当時)のために、アメリカ陸軍からサリン分解物の土壌中での毒性や分析法を解説した資料30枚を入手し、研究所に提供した。同年秋、警察当局は山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教の施設付近の土壌中からサリン分解物を検出することに成功し、これが教団とサリンとを結びつけるきっかけのひとつとなった[9]
  • 2011年には、サリン製造の中心人物だった教団元幹部の中川智正死刑囚と東京拘置所で面会し、教団による殺人事件に使用されたVXガスが、自分の論文をヒントに製造されたことを知り[9]、以降、頻繁に中川と面会するようになる。
  • 2018年3月13日の14回目の面会時には中川より身辺整理を始めたことを明かされ、これが最後の面会になるかもしれないと告げられた[10]。翌14日より他のオウム真理教の死刑囚とともに、中川は東京拘置所を離れ別の拘置所に移送されたと報じられ[11]、約3か月半後の7月6日に移送先の広島拘置所で死刑が執行された[12]

金正男殺害事件解明との関わり

  • 2017年2月13日金正男がVXガスで殺害された事件をめぐって、同年4月13日、中川が「北朝鮮がオウムのまねをした」との見方を示しているということのほか、「中国人民解放軍は使用せず、アメリカ陸軍が使う手法」、「北朝鮮の化学兵器はかなり進歩していると思う」と証言していることを明かした[13]。同年9月11日、中川との13回目の面会を果たし、中川が「国際連合を通じてマレーシア政府からVXガスの中毒症状について問い合わせを受けた」と述べたことを明らかにしている[14]

著作

著書

  • 毒蛇の博物誌』講談社、1984年。
  • 『中毒学概論 -毒の科学-』薬業時報社、1999年。
  • 『化学・生物兵器概論』薬業時報社、2001年。
  • 『事件からみた毒 トリカブトからサリンまで』化学同人、2001年。
  • 『生物兵器、テロとその対処法』薬業時報社、2002年。
  • 『サリン事件の真実』新風舎文庫、2005年。
  • 『サリン事件 科学者の目でテロの真相に迫る』 東京化学同人、2014年。
  • 『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』 角川書店、2018年。

脚注

  1. ^ Anthony T. Tu” (英語). College of Natural Sciences | Colorado State University2023年7月11日閲覧。
  2. ^ 【独占インタビュー】オウム「中川死刑囚」が語った「金正男VXガス暗殺事件」の真相--野嶋剛 ハフィントンポスト
  3. ^ 杜祖健博士榮獲日本天皇旭日中綬章北投埔林炳炎、2009年11月03日
  4. ^ 自著『サリン事件 科学者の目でテロの真相に迫る』東京化学同人、2014年4月
  5. ^ Kazuko Yamamoto Tucoloradoan.com, Dec. 19, 2012
  6. ^ Company ProfileAlaken, Inc
  7. ^ アンソニー・トゥーさん死去 サリン事件解明に協力:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web (2024年11月6日). 2024年11月6日閲覧。
  8. ^ Professor honored by Japan for help solving '90s sarin gas attack(Today@Colorado State November 23, 2009) - ウェイバックマシン(2010年7月15日アーカイブ分)
  9. a b “松本サリン事件20年 盗まれた論文…風化する「化学兵器」の衝撃”産経新聞. (2014年6月26日) 2017年9月11日閲覧。
  10. ^ “オウム・中川死刑囚「最後になるかも」死刑覚悟か?”テレ朝NEWSテレビ朝日. (2018年3月13日). オリジナルの2018年3月14日時点におけるアーカイブ。 2018年3月14日閲覧。
  11. ^ “中川智正らオウム死刑囚7人を移送 執行施設ある5拘置所に分散か”産経新聞. (2018年3月14日) 2018年3月14日閲覧。
  12. ^ “いつかこの日が来ると…「神童」と呼ばれた中川死刑囚の地元岡山”産経新聞. (2018年7月6日) 2018年7月6日閲覧。
  13. ^ “元オウム中川死刑囚「北朝鮮がオウムのまね」毒物の権威、トゥー氏が明かす”産経新聞. (2017年4月13日) 2017年9月11日閲覧。
  14. ^ “オウム死刑囚にVX症状照会=金正男氏殺害でマレーシア政府”時事通信. (2017年9月11日) 2017年9月11日閲覧。

外部リンク



杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年2月25日)は、台湾人として初めて医学博士号を取得した医学者。字は思牧。従四位勲三等[1]

経歴

幼少期~学生時代

1893年、清朝統治下の台湾・淡水(現在の新北市淡水区)生まれ[2]。9歳の時から淡水北新庄の車書房で学ぶ。11歳で滬尾公学校に入学し、滬永吉街での寄宿生活を送りながら17歳の時に首席で卒業する。1909年台湾総督府医学校に首席で合格。しかし体格検査(丙下)で本来は不合格となるところであったが、当時の医学校校長・長野純蔵の計らいで入校が許された。在学中も勉学は一番であり、併せて体操、水泳、登山で体を鍛えた。1910年、清朝腐敗に対する革命の動きが高まると、同級生の翁俊明中国語版と共に中国同盟会に加入した。大学内に中国同盟会台湾通訊處が創られると、孫文によって通訊員が派遣され、杜聰明や蔣渭水らは皆入会した。1913年に中華民国総統・袁世凱への不満が高まった際には、翁俊明と共に北京へ赴いて、コレラ菌を水に入れて袁世凱を暗殺しようとしたが、成功しなかった[2]1914年台湾総督府医学校を第13期卒業首席の成績を得て卒業。

卒業後は医学校校長・堀内次雄の協力もあり、1915年より日本に留学。京都帝国大学医学部に入学して内科薬理学を専攻して学んだ。当初、堀内のは公費留学をさせようとしたが、杜聡明は公費受給となる条件に縛られるのを嫌って願書を出さず、私費留学した。1916年4月、中華革命党に入党。1921年、台湾総督府医学専門学校講師として台湾に戻り、翌年教授に就任。

家庭面では、1922年5月20日に林双隨(霧峰林家の娘)と結婚。同1922年12月16日、京都帝国大学で医学博士号を取得し、台湾人で初めて博士号を取得した人物となり、また台湾人初の医学博士となった。1928年、『台湾民報』で「漢方医学に関する研究方法の考察」を発表し、医学界の注目を集めた。1937年台北帝国大学医学部教授に就任。薬理学講座と薬理学教室を受け持った。1944年、『薬理学概要』を出版。戦時下に日本名を強要された際には、従わなかった。

太平洋戦争以降

太平洋戦争終結後、1945年11月15日に台北帝国大学国民政府に接収された。12月に国立台湾大学が発足すると、国立台湾大学医学部部長ならびに熱帯医学研究所所長として招聘された。1946年3月に台湾医学会会長に選出された。同年4月には陳立夫の推挙により台湾国民党に入党し、同月より台湾省科学振興会理事長に就任。9月6日には国民参政会参政員に選出され、1947年1月まで務めた。

1947年、二・二八事件前に任じられた陸志鵬・国立台湾大学校長は、杜聰明を医学部部長、熱帯医学研究所所長、附屬医院院長を罷免した。医学部の魏火曜ら多くの台湾人スタッフが留任を求めて争いとなる。二・二八事件後、杜聰明は半年亡命生活を送り、半年後に復帰した。1948年8月1日、杜聰明は医学部部長と学長代理を兼任。1949年1月20日、学長職は傅斯年に引き継がれた。しかし、傅斯年がアメリカ式の医学教育を推し進めようとしたことから杜聰明との間で意見が相違することが多くあった。1950年12月20日、傅斯年が病没し、1951年2月からは銭思亮が学長となった。台大医学部に歯学科及び薬学科が開設された後、銭思亮との間でも意見衝突が生じ、1953年に医学部長の職を辞した。

高雄医学院時代

1953年7月に台湾大学を辞職すると、1954年「高雄医学院」(高雄医学大学の前身)を開設し、1966年に退官するまで院長を務めた。

研究内容・業績

  • 「楽学至上,研究第一」を座右の銘として、その生涯を医学発展にささげた。戦前戦後を通じて台湾医学界の形成に尽力した。
  • 研究者としては、アヘンモルヒネ毒蛇の研究に功績がある。減量弁毒療法や尿検査法を確立し、蛇毒成分からの鎮痛剤抽出や、赤痢特効薬の開発など、薬理学方面で特に業績を残した。

家族・親族

著作

著書
  • 『臺灣ニ於ケル阿片癮者ノ統計的調査』臺灣醫學會
  • 薬理学教室論文集』
  • 『杜聡明言論集』
  • 『中西医学史略』1971
  • 『回憶録』杜聰明博士奨學基金會 1973
    • 再版 (中國現代自傳叢書) 龍文出版社 1989
  • 『杜聰明 墨寶漢詩 紀念輯』杜淑純編、杜淑純 2008
共編著
  • 『杜林雙隋女士追思録』編、杜聡明博士徳配林夫人治喪委員会 1969

杜聰明に関する参考文献

  • 『台湾中西医学結合先駆:杜聰明教授』蘇奕彰・胡展榕著 花木蘭文化事業 2021年.
  • 『中国名医列伝:呪術漢方・西洋医学の19人』吉田荘人著, 中公新書 1992年[3].
  • 『砂に書かれた記録 39、40』森於菟著『父親としての森鴎外』所収)筑摩書房 1969年.

脚注

  1. ^ 台灣總督府職員錄(昭和十八年七月一日)”. 2015年2月22日閲覧。
  2. a b 人物志 杜聡明”. 淡水区公所. 2015年2月22日閲覧。
  3. ^ ISBN 4121010663



霧峰林家(むほうりんけ)は台湾で著名な一族である。19世紀中葉から台湾中部の田地を経営し、太平天国の乱戴潮春の乱の平定や清仏戦争に関わり、数千の兵を抱え、樟脳の専売権を得るなど、清朝統治時代の台湾で最も影響力のある家族であった。国民政府が台湾に移った後は、霧峰林家の家族は彰化銀行を経営し、金融界に影響力を発揮している。基隆顔家板橋林家鹿港辜家高雄陳家ともに「台湾五大家族」と呼ばれている。


霧峰林家の祖籍は漳州平和県五寨郷埔坪村で、1746年に台湾に渡ってきた。初代の林石1786年林爽文の反乱に参加している。林石の孫の林甲寅のときに阿罩霧(今の台中市霧峰区)に移住し、家族経営を開始した。

林甲寅の孫の林文察小刀会の反乱、太平天国の乱、戴潮春の乱の鎮圧に活躍し、総兵の地位を得て、霧峰林家は大きく発展した。

1884年、林文察の子の林朝棟郷勇2千人を率いて清仏戦争で功績を建て、官職を得た。林朝棟はその後、施九緞の反乱の鎮圧にも活躍している。こうして霧峰林家は1890年代は樟脳販売の独占権を得るなどして、大きな利益を得ていた。しかし日清戦争後に台湾が日本領となると、林朝棟は台湾民主国に参加し、日本軍に敗北して福建省に逃れ、上海で客死した。

1900年代、林朝棟の子の林資鏗の代になると、林家の資産の大部分は日本に接収された。1915年、林資鏗は大陸に渡り孫文中華革命党に参加し、1921年には大元帥府の武官となった。しかし彼は1925年に軍閥のために暗殺され、霧峰林家で政治・軍事に関わった最後の人物となった。

林文察の従兄弟で挙人林文欽とその子の林献堂は文学・演劇・美術を愛好し、以後霧峰林家は文芸で知られるようになる。林文欽は萊園という庭園を建設し、林献堂は郷紳たちとともに台中一中を建設したことで知られている。



霧峰林家宅園(むほうりんけたくえん)は台湾台中市霧峰区にある台湾五大豪族の一つである霧峰林家の邸宅(林家第)と庭園(中国語版、または林家花)から構成される建築群。台湾で最大規模の邸宅で現在も霧峰林家の末裔が居住している[2][3]1985年国定古蹟に指定されたものの、1999年921地震で大半が損傷し再建中である。林家末裔の企業である林本堂股份有限公司と財団法人阿罩霧文化基金会が施設を管理運営[4]、中央政府・台中市政府からの補助を得ながら被災した建物の修復を自力で行っている。

 

莱園(らいえん、繁体字中国語萊園)は頂厝系の林文欽が母のために建てた庭園で通称「林家花園」。現在の明台高級中学校庭内にある。明台高中は林献堂(1881-1956)を中心とする教育者たちが設立した。台湾四大名園(三大、五大の場合でも含まれている)の一つ。

  • 木綿橋:元は木製だったが1921年にセメント製で再建された[11]
  • 五桂楼:楼の前に植樹された5本の桂樹は頂厝系の五堂兄弟(烈堂、澄堂、階堂、紀堂、獻堂)を表していることからそう呼ばれている[11]
  • 鉄砲碑:林献堂が建て、進士陳望曽が碑文を上梓している。林文察戴潮春の乱で敗残兵を阿罩霧で討伐、平定したことを記念して造られた。
  • 飛觴醉月亭:池(小習池)にある中洲「荔枝島」の上に建造された涼亭(東屋)。戯台があり、納涼ではなく対岸の五桂楼から住人が観覧する演劇の場所として使われた[11]
  • 虹橋:飛觴醉月亭にかかる橋。1906年に木造で架けられ、1932年に現在のセメント製になった[11]
  • 櫟社名碑(櫟社二十年題名碑):1921年に櫟社中国語版設立20周年時に設置されたセメント碑。
  • 莱園一家石:初代校長だった林攀龍が建立。『萊園一家』と彫られている[11]
  • 林竹山夫子頌徳碑:日本統治時代に推進された日本語教育を拒否し、漢学を教え続けた林竹山(字名:林作敬)の教え子らが1949年8月27日孔子生誕2500年の日に建立[12]
  • 夕佳亭:園内の重要な高所拠点。夕陽を観覧するのに適している[11]
  • 三十六台階:夕佳亭に向かう途中にある36段の階段[11]
  • 林氏祖塋:林家頂厝系の一族の墓地
  • 石頭公:初代林家の林石公を祀るために設置[11]
  • 林允卿銅像:林文欽の像。1935年に建立。1945年に現在の五桂楼付近に移転した[11]
  • 櫟社百週年紀念橋
  • 林献堂博物館:元は「林献堂先生文物典蔵館(繁体字中国語林獻堂先生文物典藏館)」として政府の「一郷一館」政策推進に伴い2000年に建立。林献堂のコレクションが展示されている[11]。学校の創立70周年2019年5月に博物館としてリニューアルした[13]


朝井 大智(あさい だいち、1985年12月30日- )は、日本俳優である。京都府出身。 台湾五大家族霧峰林家の十代目子孫である。漢名【林睦宸】。テンカラット所属。

来歴・人物

  • 台湾で著名な清朝時代からの富豪だった台湾五大家族霧峰林家の家系。末の台湾の軍人林朝棟や日本で貴族院議員も務めた林献堂などが著名な先祖にあたり、2015年の台湾映画Attabuにて主演の曽祖父に当たる林資鏗役を自ら演じた[1]
  • 中学3年生から高校3年生までを台湾、大学の4年間を上海で過ごす。上海交通大学卒業。以降9年間を台湾で過ごす。[2]
  • 2019年の3月より日本での活動を開始する。2019年以前は台湾での活動が中心。[3]
  • 2020年2月25日より芸名を「大地」から「朝井大智」に改める。

出演

テレビドラマ

映画

テレビ

ネット配信

  • PopDaily 波波黛莉女孩暗黑真心話:第一次約會篇(2015年12月、台湾)
  • 翻轉吧!菜鳥!(2017年4月、台湾)
  • 恋するための8つの法則(2019年7月 - 、dTVチャンネル) - テツヤ 役

MV

  • 李榮浩「自拍」(2015年、台湾)
  • ALIN「隨心所欲」(2016年、台湾)
  • 鄭秀文「痛入心扉」(2017年、台湾)

ショートフィルム

  • 瑞穗鮮乳 第三章 我的媽媽 菜鳥媽媽 (2015年11月、台湾)

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2007年FROM A日本
2007年AQUARIUS台湾
2008年蘇州電器中国
2012年統一綠茶中国
2012年KFC-下午茶去哪兒篇中国
2012年韋恩咖啡台湾
2012年花王 魔術靈台湾
2014年MAZDA CX台湾
2014年花王 魔術靈台湾
2015年TOYOTA RAV4台湾
2015年花王 ATTACK台湾
2015年IKEA台湾
2016年HTC台湾
2017年LUXGEN C3台湾
2017年SEIKO台湾
2017年御茶園台湾
2017年鬼洗い牛仔褲台湾
2017年7-11台湾
2017年金門高粱酒台湾















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4 件のコメント:

  1. 満州派の方ですね。

    返信削除
  2. マジック+クリーン
    ではなく
    マジック+林www

    さすが
    花の王wwweeeew

    返信削除
  3. 杜 祖健(とそけん) 毒物学者

    屠蘇(とそ)って、あれ、ホントは毒が入ってたんだっけw

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  4. 便器はキレイにしておかないと💩神からお仕置きされてしまうのだw

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