10/27/2024
10/26/2024
アメリカのニューヨーク・タイムズは、数千人の北朝鮮の兵士がロシア西部・クルスク州に到着したと報じました。 ニューヨーク・タイムズは25日、当局者の話として、ウクライナ軍の越境攻撃が続くロシア西部のクルスク州に、数千人の北朝鮮の兵士が到着したと報じました。 最初の部隊が23日にクルスク州に入って以降、兵士の数は増加しているものの、戦闘にはまだ参加しておらず、どのような役割を担うかは明らかではないと伝えています。 その上で、北朝鮮の部隊が投入されれば、ロシア軍は攻勢を強めるウクライナ東部に兵力を集中させることができるとしています。 ウクライナのゼレンスキー大統領は声明で、「ヨーロッパで北朝鮮との戦いを強いられるだろう」と危機感を示した上で、ロシア領内で長距離兵器を使用する許可に応じない支援国の決断力の欠如によるものだと、不満をあらわにしました。 声明では、ロシアによる市民への攻撃も批判していて、ロイター通信によりますと、中部のドニプロで25日、ミサイル攻撃で4人が死亡、子どもを含む少なくとも20人がケガをしたほか、首都キーウでも無人機攻撃によって14歳の少女が死亡したということです。 (2024年10月27日放送)
クルスク(ロシア語: Курск, ラテン文字転写: Kursk クールスク)は、ロシア・クルスク州の州都。人口は約44万人(2021年)。工業都市であり、冶金、機械、化学工業が盛ん。中央区、セイム区、鉄道区の3つの区に分けられている。黒土地帯の中心で交通の要所であり高速道路M2が走る。
第二次世界大戦中に独ソ両軍による大規模な戦闘(クルスクの戦い)が行われた。
近郊の村オブホーフカ(ロシア語版)で、日本に縁の深い詩人、ヴァスィリー・エロシェンコが生まれ、また没した。
クルスクはデスナー川の最大の支流セイム川にクル川が流れ込むところにある。古くよりスラブ人の要塞があったと考えられるが、クルスクの名が最初に記録に登場するのは1032年のことである。12世紀末の人物イーゴリ・スヴャトスラヴィチ公のポロヴェツ人に対する遠征を描いた『イーゴリ軍記』にもスラブ人の町の一つとして登場している。
小さな公国(クルスク公国)の首都であったクルスクは12世紀と13世紀にはポロヴェツ人の相次ぐ攻撃で荒廃し、1237年頃にはモンゴル帝国のバトゥ率いる軍の攻撃で壊滅した。クルスクが再建されたのは遅くとも1283年頃のことである。1508年にはモスクワ大公国に併合され、その最南部の守りを固める要地となった。クルスクはウクライナ地方とのトウモロコシ交易で栄え、クルスクの生神女修道院の城壁の下で年に一度大きな定期市が建つことでも知られた。
ソビエト連邦時代には、クルスクは付近の豊富な鉄鉱床の存在から重要視され、ロシア南西部の鉄道の中心地となった。第二次世界大戦中にはドイツ軍と赤軍の激戦地となっている(クルスクの戦い)。
クルスク州とその周辺の州は、コンパスが狂うほどのクルスク磁気異常現象 (Kursk Magnetic Anomaly:KMA) でも有名である[2]。
クルスク➡✟艹
Kursk➡CurseK➡Kの呪
もうどんry…
バトゥ(ペルシア語 : باتو Bātū、1207年 - 1256年)は、ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。カナ表記ではバツ、バト。
1224年、父のジョチの死によりジョチ家の当主となる。バトゥの異母兄のオルダは病弱がちだったため[要出典]、次男で母の家柄もよかったバトゥが当主となった。オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト氏族の出自であったが、おそらくバトゥの家督継承には彼の母がコンギラト部族の宗主のアルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係していると思われる[要出典]。
モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。
1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。
また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった[3]。ジョチ・ウルスの属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。
ロシアのもっとも異常な場所7選
観光・自然
2023年9月26日
エレオノーラ・ゴールドマン
Russia Beyond (fundamental rights/Getty Images; KTSDesign/SCIENCEPHOTOLIBRARY/Getty Images; designprojects/Getty Images)
ここでは携帯電話が通じず、方位磁針が狂い、地元の人々は宇宙人についての心を揺さぶる話を語っている。
1. クルスク磁気異常
方位磁針を信頼できないこの場所は、クルスク州、ベルゴロド州、オルロフ州の3つの州にまたがっている。クルスク磁気異常と呼ばれるこの場所は、世界で最大の鉄鉱石の貯蔵地の一つである。方位磁針が狂ったように回り始めるのは、他でもないこのためである。
鉱山は今も稼働しているが、ここにはエクスカーションのグループのメンバーとしてしか訪れることはできない(爆破が行われている時間以外)。上の展望台からは素晴らしい鉱山の景色を見ることができる。
2. モレブの三角地帯
ペルミ地方のモリョーブカ村は1980年代からUFO研究者や観光客を魅了している。ここにはUFOのための発着場のようなものがあるという人もいる。「恐怖の草原」の草の上に現れるミステリーサークルや小さなピラミッドはそれ以外に説明できない。
ここには「電話ボックス」と呼ばれる場所がある。4平方メートルほどの場所があり、そこだけ携帯電話が使えないのである。
3.「都市の国」
チェリャビンスク州にある古代都市アルカイムという名前を聞いたことがあるかもしれない。1980年代に、ここに貯水地を建設する際に発見された。発掘調査が行われた結果、これは紀元前20世紀から12世紀に建てられたもの、つまりエジプトのピラミッドと同じ時代のものであることがわかっている。この中には60軒以上の家と水道システム、鋼鉄の炉があった。
アルカイムという名称は、近くにある丘の名前をとって、ソ連の考古学者らがつけた。研究者らによれば、この都市は200年ほど存在し、その後、住民たちはここを焼きはらって、別の地へ去ったという。
考古学者らはこれ以外に、その半径350キロ以内で、さらに20ほどの集落を発見し、彼らはこの場所を「都市の国」と呼んだ。現在、この場所はエネルギーを得ようとする様々な神秘主義者らを惹きつけている。これらの都市は他でもないこのために建設された可能性がある。研究者らは「都市の国」に人は住んでおらず、人々は儀式を行ったり、集団で祝日を祝ったり、銅製品を製作するためにここに来たと考えている。「都市の国」を訪れた人々の中には、理由もなく不安になったり、血圧や体温が上がったりしたと指摘している。
4.「ダンスする森」
カリーニングラード国立公園クルシュー砂洲には謎の森がある。松の木の幹が曲がって、螺旋状になったり丸くなったりしているのである。しかし実はこれは古い森ではない。木が植樹されたのは1960年代になってからのことで、それは砂地を強化するためであった。そして「ダンス」しているのは、すべての木ではなく、一部である。
もちろん、この森をめぐっては様々な伝説がある。その中にはこれは聖霊の世界への入り口だというものがある。しかし、植物学者らは、「ダンス」の理由は地磁気と若枝を好む害虫であり、また砂洲の下にある粘土質によって、木々が真っ直ぐ育たないと説明している。
5. イマンドラ湖
ムルマンスク州のアパチティ市には北極の湖イマンドラがある。この湖は、北極の蜃気楼が見えることで知られている。つまり、ここでは木々、建物、丘などが見ることができるのだが、それは幻覚なのである。
というのもイマンドラ湖は丘に囲まれており、湖の上には冷たくて密度の高い空気が漂い、それがレンズのような役割を果たしているからである。そのため、蜃気楼はそのまま見えることもあれば、逆さまに見えることもある。
6. ブロスノの怪物
おそらくどこの国にも、「ネッシー」のような生き物がいることだろう。ロシアに住む水中の「ネッシー」はトヴェリ州のブロスノ湖に住んでいる。少なくとも、地元の人々や目撃者たちはそう信じている。湖の水面がときどき揺れたり、波打ったり、泡が現れたりするという。実際、学者たちは、「泡」が出るのは土壌の中の硫化水素が原因だと考えている。しかし、湖で確認されている「ウロコのある頭」など、すべての奇妙な出来事をこれだけで説明することはできない。
7. ヴォトヴァーラ山
高さ500メートルもないヴォトヴァーラ山はカレリアの中央部、人がほとんど住んでいないところに位置している。近くの村までは30キロ以上あり、沼や湖を抜けていかなければならない。地元の人々はヴォトヴァーラ山には霊が集中していると考えており、できるだけここを回避するようにしている。山には、曲がった松や白樺以外にほとんど何も生育しておらず、一定の法則で重ねられた1600ほどの巨礫がある。考古学者らはサーミ人などの古代民族の儀式の場所だったのではないかと推測している。https://jp.rbth.com/travel/88384-rosia-ijouna-basho
ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコ(ロシア語:Василий Яковлевич Ерошенко;ラテン翻字例 Vasiliy Yakovlevich Eroshenko、1890年1月12日 - 1952年12月23日)は、エスペランティスト、作家、多言語話者、言語学者、教育者。
概要
1890年に、現在のロシア連邦クルスク州オブホーフカで生まれた。エロシェンコは4歳の時に麻疹により視力が低下したが、宗教に盲信的な祖母のために教会へだけ連れていかれ、医療処置を受けられなかったことで同年に失明してしまった。麻疹以前は健康で陽気な少年から性格が変わってしまったことを心配した父親から9歳の時にモスクワの盲学校に入れさせられた。ただし、当時の盲学校では視覚障害者への扱いは監禁生活であった[1]。15歳のころからエスペラントを学び、1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。盲学校卒業後、自宅に戻った後は、盲人オーケストラで働いた[1]。1912年にはイギリスの盲学校(王立盲人師範学校)へ入学した。訪英が最初の国外への旅となった。しかし、無頼(ならず者行為)を繰り返したことから追放処分となった[1]。
初訪日時代
在英時代に日本では視覚障害者がマッサージ職(あんま)を得ていることにより、自立出来ているとの噂を聞いて、憧れて日本語も勉強していた[1]。そのため、1914年に初来日した。エロシェンコは、同年5月11日に東京盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)を訪ね、按摩術とマッサージ研究のための入学を許可され、学んだ[1]。
東京盲学校の生徒は、年齢がばらばらではあったが、当時24歳であったエロシェンコは他よりも年輩で、体格も堂々たる偉丈夫であった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、相撲で遊ぶこともあった。盲学校の生徒を対象に、エスペラントの講習会を何回も開いた。熱心に学んだ人たちに、鳥居篤治郎、平方龍男、新津吉久、斎藤武弥・百合夫妻、三谷復二郎、熊谷鉄太郎、今関秀雄らがいる。また、これらの人々に、バハイ教の教義をも教えていた。のちに外国の盲人組織とも連携して日本盲人会連合会長として活躍する鳥居篤治郎の仕事も、このエスペラント学習に負うところが大きい。通常授業の前に小川源助に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校内で他の生徒と同格での講演・ギター演奏・バイオリン演奏をすることもあった。1916年5月6日に築地盲人技術学校で開かれた中央盲青年会で講演をしたのは、小森(技術学校教師)・平方龍男・エロシェンコ・高木正年・立花盲人会長・斎藤武弥であった。当時の盲人会の重鎮と並んで講演していることからも、エロシェンコの当時の立場が察せられる[2]。戦前期の日本ではしばしば「盲詩人エロシェンコ」と称された。エロシェンコの日本での著作はほとんどが童話であり、詩は少ないが、これについて藤井省三は、金髪、白い肌、ヨーロッパ人流のアクセントを残す日本語などが詩人らしさを当時の人に想起させたとしている[3]。
上述のように、「日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)をやって立派に自立しているそうだ」と聞いて、日本への旅を決心した。両親は、「この子には好きなことをさせておくよりほかない」と思ったらしく、あっさり承諾したという。エロシェンコは、モスクワのエスペラント協会に、日本のエスペランティストを紹介してくれるように頼んだ。日本では、1906年に第1回のエスペラント大会も開かれ、協会も結成されていたが、思うように発展せず、このころは会長はなしで副会長に中央気象台長の中村精男博士がなっていた。エロシェンコは、シベリア鉄道を使い、1か月近くかかってやっと中村博士を訪ねた。気象台には、ヨーロッパ留学中にエスペラントを習い帰国したばかりという人など、2~3人のエスペランティストがいて、エロシェンコの面倒をみることになった。1916(大正5)年には、日本から東南・南アジアに渡った[1]。日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著した。中村屋で秋田雨雀・江口渙・神近市子ら多くの文化人と交流し、その一人だった洋画家の中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いている。初訪日期間に、中村屋のおかみで創業者相馬黒光と知り合って以降は、気に入られたことで衣食住の面倒を見てもらうようになった。彼は恩義のある中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教えていた。そのため、後述の国外追放後である1927年に中村屋が喫茶部開店した際にはボルシチをメニューに盛り込まれ、店員の制服には彼の着用したルバシカが採用されている。1933年にはピロシキを発売した[1]。
東南・南アジア時代
シャム(現在のタイ王国)に渡り、その地に盲学校を設立した。しかし、シャムでは盲学校が必要とされていないと感じる。ビルマ(現在のミャンマー)へ行き、モルメイン(現・モーラミャイン)という町でしばらく盲学校の教師をする。さらに英領インドに渡ったが、ロシア革命の影響でロシア人は厳しく扱われ、ロシアのボルシェヴィキとして国外追放された。
再来日以降
1919年の夏に英領インドから上海を経由して再び日本へと逃がれ、中村屋を再度訪ねた[1]。
社会主義思想への傾倒
再来日後にはエスペラント講習会で知り合った高津正道(日本共産党結党メンバーの一人)や彼の仲間の影響を受け、社会主義思想に傾倒していった。そしてボルシェビキ(ロシア共産主義者)の嫌疑をかけられて、危険人物として1921年に国外追放処分となった[4][1]。
訪中以降
訪日中にエスペラント語経由で知り合った社会主義者の日本人らの影響で社会主義へ傾倒していき[1]、1921年5月1日に日本の社会主義者らとメーデーと会合への参加したことで逮捕され、国外追放となり、敦賀からウラジオストクに送られ、ハルビン、上海、北京と移動し、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。
その後、モスクワに行き、8年ぶりに家族と再会する。そして、トルクメン共和国盲児童寄宿学校、モスクワ盲学校などで盲人教育関係の仕事をする。晩年は生まれ故郷に帰り、1952年に62歳で亡くなった。エスペランティストであるとともに帰国者という当局からは危険視される存在だったにもかかわらず、盲者であったためか大粛清などの弾圧を受けることはなかった。1922年、魯迅と魯迅の弟の周作人に招かれ、北京大学のエスペラント専門学校教授に就任した。
1923年には中国を出てヨーロッパへ渡った。1924年にソ連のモスクワへ戻って、東方勤労者共産大学の日本語通訳を務めたが、待遇は酷かったという[1]。
1929年-1930年にはシベリアのチュクチ半島を旅行。
1935年にはニジニ・ノヴゴロドとモスクワで仕事をした。同年、トルクメニスタンのマリの近くに盲学校を開設し、1945年までそこに滞在した。
1945年-1946年にはモスクワの盲学校で教師をつとめた。
1949年-1951年にはタシュケントに暮らした。
1952年には生まれ故郷のオブホーフカにもどり、著述にあたった。癌で没する3日前まで原稿を書き、友人に送るよう人に託したが、伝染病と誤解されて燃やされてしまった。
著作
全文エスペラントによる峰芳隆編集のエロシェンコ選集 (Elektitaj verkoj de Vasilij Eroŝenko) により、主な著作を示す。Lumo kaj ombro (=「光と影」、中国滞在時に著わされたエスペラント原作集)
La tundro ĝemas (=「ツンドラはうめく」、チュクチ半島滞在経験をもとにしたエスペラント原作集)
Malvasta kaĝo (=「狭いかご」、日本語原作集)
Stranga kato (=「変わり猫」、日本語原作集)
La kruĉo de saĝeco (=「賢さのつぼ」、エスペラント原作集)
Cikatro de amo (=「愛の傷跡」、中国語原作集)
遺産
2023年5月キーウ市議会は、太平洋戦争前に東京で活動したスパイの名を冠したキーウの「リヒャルト・ゾルゲ通り」を、「ヴァスィリー・エロシェンコ通り」と改名した[5]。
株式会社中村屋(なかむらや、英: NAKAMURAYA CO.,LTD.[3])は、東京都新宿区に本社を置く食品メーカーである。
概要
一般には「新宿中村屋」の名称で知られる。和菓子、洋菓子、菓子パン、中華まん、レトルト・缶詰のカレーなどを製造販売しているほか、いわゆるデパ地下やショッピングセンターなどで菓子店と(直営店15店)、レストラン(直営店10店)を営業している。また、関東で販売される中華まんのシェアトップを占めており[4]、コンビニエンスストア向け業務用食品にも商品を持つ。2019年(平成31年)3月期の売上比率は、菓子事業76%、食品事業22.5%、賃貸事業1.5%である[5]。
特色
現在日本で食べられている中華まんは、1925年(大正14年)から1927年(昭和2年)発売日まで改良を加えられて、日本人の口に合うように工夫されたものである[6][7]。また、クリームパンを日本で初めて販売しており[8]、カレーパンとともに有名である[9]。
相馬愛蔵(創業者)屋号は明治の末頃に中村不折が揮毫したものを用いている[24]。
1901年(明治34年)の創業以来、妻の相馬黒光とともに独創的なパン・食品を作り続けた。1904年(明治37年)にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した[8]。1927年(昭和2年)には現在の中華まんのもととなる「天下一品支那饅頭」を発売[6]。
1918年(大正7年)に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことをきっかけに、ボースから米(白目米)や鳥(軍鶏)にまでこだわった本格的なカリーの調理を学び、1927年(昭和2年)6月12日に当時の日本では珍しい純インド式カリーを販売している。このカリーメニューだけは原料の変更時などに社長の決裁が必要とされ、特別な存在となっている[25]。本店のカリーのキャッチフレーズ「恋と革命の味」はここから生まれ、引き継がれている。また中村屋では発売開始日の6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」と定めている[26]。
フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や[27]、山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで勤務していた。
新宿本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。その中にロシアの童話作家ワシリー・エロシェンコもおり、彼がレシピを伝えたボルシチも、前述のカリーと並び本店レストランの開店以来の人気メニューである[28]。ただし、このボルシチはテーブルビートの代わりにトマトを使用したものである。また、エロシェンコが着用していたロシアの民族服ルパシカが店員の制服として採用されている[12]。
不祥事・労働問題
2021年(令和3年)12月17日、中村屋と同社の埼玉工場管理課の係長が入管難民法違反(不法就労助長)の容疑で警視庁により書類送検された。警視庁組織犯罪対策1課によると、容疑事実は、さいたま市の人材派遣会社から派遣されたネパール人6人を資格外の活動に該当すると認識しつつも2018年(平成30年)11月から約2年半にわたり埼玉工場の作業員として就労させたものである。ベトナム人なども含めて少なくとも40人を不法就労させた疑いも出ている。この事態について、鈴木達也社長は警視庁の任意の調べにおいて、「考えが甘かった」として業務体制や組織対応の見直しを行う姿勢を示した[29][30][31][32][33]。
レストラン・販売店2005年、新宿中村屋本店のインドカリー新宿中村屋ビルマンナ - レストラン&カフェ
ボンナ - スイーツ&デリカ
グランナ - カジュアルダイニング
オリーブハウス - 南欧風レストラン・8店
洋食レストラン 新宿中村屋
恋とスパイス 新宿中村屋
販売店 - 東京・7店、神奈川・4店、埼玉・1店、千葉・1店
(2020年〈令和2年〉10月28日現在)
美術館新宿中村屋ビル『中村屋サロン美術館』(ビル3F) - 相馬黒光がかつて主催していた文芸サロン『中村屋サロン』にちなみ命名された美術館。
主な事業所
中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られる。本名:中村鈼太郎(なかむら さくたろう)。
中国の書の収集家としても知られ、唐代の書家である顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「顔真卿自書建中告身帖」などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現:台東区立書道博物館)を開館した。
日本は、1980年代までつくば遷都計画?があった気がするが、
返信削除なんでなくなったんでしょうか?
せんとくんw
削除八百万の神への改竄アタックww
返信削除阿呆かとww
中村屋も
十だらけww
>12世紀末の人物イーゴリ・スヴャトスラヴィチ公のポロヴェツ人に対する遠征を描いた『イーゴリ軍記』にもスラブ人の町の一つとして登場している。
返信削除ただ、有名なオペラのプリンツ・イーゴリの主な舞台は、いまはクルスクから見てウクライナ国境のすぐ外にあるプチーヴリ市で、このころのロシア人の感覚では、ウクライナもロシアもなかったんですかね
(ポロヴェツ人の踊り 韃靼人の踊り、という名前でも知られているが)
https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI
このビデオでオーボエの兄貴分ででてくるのがイングリッシュホルン(コーラングレ) 完全五度低いので管長は1.5倍
あと、どうでもいい話だが、庵野かだれかが、エヴァのOPにこれ入れようとしたら、TV局かキングレコードかどっかが、それはふさわしくない、と不採用だったとか
削除、、このTV局かどっかの見立てがただしければ、もし庵野か誰かが我意を通しまくってこれ採用されてれば、エヴァオタクの数も激減し、あの「エヴァ御殿(キングレコード関口台スタヂオのこと)」も建たずじまいで、そしたら野間山も開発を免れ、野間山のタヌキの一家も、まだ子育てできてたのか、、、ああ、、
>世界で最大の鉄鉱石の貯蔵地
返信削除鉄ですか 最近... アイアン...なんとかが出てたような...