9/10/2024

真の日本の皇室は第49代光仁天皇を最後に、皇后だった井上内親王と肝心の皇室血統の正統継承者だった早良親王を陥れ排除し外道キムチ血統の似非皇室にすり替えられたんだよ。LoL


9/09/2024

アフォがここで「霊能者が〜」とかほざいたせいで御嶽神社、御嶽教、御嶽山信仰系他修験道系団体は優先的排除対象と化した。LoL

https://jyado.blogspot.com/2024/09/lol_86.html

9/09/2024

御嶽山@芳賀とタイタニック岩。LoL

https://jyado.blogspot.com/2024/09/lol_50.html
匿名2024年9月9日 11:17
ユーちゃんが生まれる前に、両親は沖縄の(かって)聖地と言われた離島に2度行っている。
両親が入ってはいけないウタキに入ったかどうか知らないが
数十年前まではそこに入った外来の男性は確実に不幸事故病気に
みまわれた。
今この島は観光ルートに組み込まれて、島には結婚ロードが作られ
あちこちから集まってきた精神世界好き人種や
自称霊能者が観光客相手に呪いをふりまいている。
皇室にとって不幸のもとが持ち込まれたのではないのかと想定すると、沖縄が中国に侵略されるより致命的打撃かな。

せっかく穏便に幕引きさせてやろうとしてたのに懲りないねえ…
まだ外道キムチ血統の似非皇室を諦めきれないと…
あたかもキムチ血統皇室は秋篠宮が沖縄に行ったせいでダメになっただけで、それまでは価値があったとの思わせぶりの印象操作乙!
もしかしてメンヘラ愛子推しの愛新覚羅方面の方でつか?
お前らが言うところの皇室の「伝統」も「血統的価値」も「神霊的価値」なんてもんはもう千年以上前に無くなってるんだよ。
もう自称皇室としてそこにあるのはおどろおどろしい悪意と呪霊に満ちた汚れまくってるキムチ血統の一族なんだよ。
だから今更、秋篠宮が何しようがアイコとユージンがチエオクレだろうが、そんな事もうどうだっていい話なわけ。

既に明仁が意図せずともゲロってる。



で、以下はそのConfirmationと日本人が知らないまるで嘘みたいな真実のごく一部。

川で泳いでいた21歳男性が流され行方不明 警察と消防が捜索 奈良・五條市(2024年9月8日)
MBS NEWS
Sep 7, 2024
9月8日午後、奈良県五條市の吉野川で友人と遊んでいた21歳の男性が流され、行方不明になっています。  8日午後1時45分ごろ、五條市滝町の吉野川で「男性が川で姿が見えなくなった」と119番通報がありました。警察と消防などによりますと、大阪府内に住む男性が午後2時前、友人男性と2人で川に入り泳いでいたところ、下流に流されて姿が見えなくなったということです。  友人男性は無事でしたが、男性の行方はまだわかっていません。男性は8日正午前から友人5人と吉野川にある芝崎河川公園を訪れていたということです。警察と消防が男性の行方を捜索しています。

 




五條市(宇智郡)には御霊神社が多い。御霊信仰とは祟りのを恐れ敬う信仰だ。有名なのは藤原種継暗殺の罪を着せられた早良親王8さわらしんのう)(崇道天皇)。宇智郡の御霊神社は桓武天皇の庇護で置かれた霊安寺町の御霊神社本宮から分祀されている。本宮は、井上内親王(いがみないしんのう)、早良親王、他戸親王(おきべしんのう)を祀り丹生川をはさんだ対岸にある火雷神社を併せて四所大明神と呼び、宇智郡の信仰を集めている。「御霊宮本紀」によると1238年に河南の吉原氏と河北の牧野氏が言い争いとなり、御霊神社が十か所に分祀され、その後二十三社に分かれていった。 ここの御霊神社の祭神は井上内親王で、第45代桓武天皇の第一皇女として生まれ、第49代光仁天皇の皇后となる。呪いをかけたとして皇后の位をはく奪され、幽閉先で暗殺された。怨霊であっても崇め祀れば「御霊」となって地域を守る神となる。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、奈良県五條市にある神社。御霊本宮・御霊宮大明神・四所御霊大明神・宇智郡大宮・御霊さんとも呼ばれる。旧社格は県社。
祭神
祭神は次の4柱。[1]本殿:井上内親王(いのえないしんのう)
南脇社殿:他戸親王(おさべしんのう)
北脇社殿:早良親王(さわらしんのう)
別宮:火雷神(井上内親王第三子。伊邪那岐命が生んだ火雷大神とは異なる神)
歴史
御霊神社の御祭神である井上内親王は、聖武天皇皇女として養老元年(717年)に生誕した[1]。 5歳で斎王として伊勢皇大神宮に出仕し、のちに白壁王の妃となる。宝亀元年(770年)、白壁王は第49代光仁天皇に即位。しかし政権争いに巻き込まれ、無実の罪により皇太子他戸親王とともに大和国宇智郡没官の宅に流罪となり、宝亀6年(775年)4月25日逝去[2]
その後、都に天変地異が起こり悪疫が流行したため、朝廷は内親王母子の怨霊の祟りと恐れ、内親王を皇后に復し、霊安寺を建立し御霊を安め奉る。その頃に御霊神社も創建された[2]
嘉禎4年(1238年)吉原・牧野両豪族の論争に起因し10社に分社[2]したが、その後も宮分けが進み、400年余りの間に20余社の御霊神社が宇智郡(現在の五條市)に分祀された。

  • 養老元年(717年):井上内親王誕生。父、聖武天皇。母、県犬飼宿禰廣刀自。
  • 養老5年(721年):井上内親王(5歳)、斎王として伊勢皇大神宮に出仕。
  • 天平16年(744年):井上内親王(28歳)、斎王解任。
  • 天平19年(747年):井上内親王(31歳)、白壁王と結婚。
  • 天平宝宇5年(761年):井上内親王(45歳)、他戸親王誕生。
  • 宝亀元年(770年):白壁王(62歳)、光仁天皇に即位。井上内親王(54歳)も皇后に。
  • 宝亀2年(771年):他戸親王(11歳)、立皇太子。
  • 宝亀3年(772年):巫蠱の罪により、井上皇后(56歳)・他戸皇太子(12歳)を廃す。
  • 宝亀4年(773年):光仁天皇の姉・難波内親王厭魅した罪に問われ、井上内親王(57歳)・他戸親王(13歳)、宇智郡没官の宅に流罪幽閉。
  • 宝亀6年(775年):4月25日(27日とする説もある)、井上内親王(59歳)・他戸親王(15歳)母子ともに逝去。
  • 宝亀7年(776年):都に天災飢饉相次ぎ、母子の祟りと恐れられ、600人の僧に読経が命じられる。
  • 延暦4年(785年):藤原種継暗殺の黒幕として早良皇太子を廃し、淡路へ配流中に憤死。
  • 延暦19年(800年):葛井王が下向。井上内親王を皇后に復し、早良親王に崇道天皇を追称する。加えて同地に霊安寺を建立。御霊神社もこの頃に創祀されたと考えられている。
  • 延暦24年(805年):都で150人の僧が大般若経を読経し、母子の霊を慰める。霊安寺に稲3000束、調綿・庸綿各150斤が下賜される。
  • 弘仁7年(816年):霊安寺・御霊神社に太政官符として稲4000束を納む。
  • 貞観5年(863年):京都神泉苑にて御霊会が営まれる。
  • 天永3年(1112年):大般若経を納む(現在満願寺所蔵530巻)。
  • 明治5年(1872年):廃仏毀釈神仏分離。所蔵の仏像・経文等は満願寺へ。
  • 明治8年(1875年):御祭神1100年祭斎行。
  • 昭和19年(1944年):社格県社に昇格。
  • 平成2年(1990年):鎮守の森コンサート第1回開催。第20回まで続く。
  • 平成29年(2017年):御祭神生誕1300年祭を予定。



井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日775年5月30日))は、第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自伊勢斎王、のち第49代光仁天皇皇后。別名井上廃后、吉野皇后[1]
経歴
養老5年(721年9月11日に5歳で伊勢神宮斎王卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年1月13日、弟の安積親王薨去により斎王の任を解かれ、退下したとされる[2]
帰京後、白壁王(後の光仁天皇)のになる。天平19年(747年)、無品から二品に叙される[3]天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王の出産に関しては、前近代の女性としてはあまりにも高齢での出産のため、『水鏡』で他戸親王の年齢を記載した「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして、天平勝宝3年(751年)に35歳で出産したとする説がある。しかし酒人内親王を37歳の時の子であると考えた場合、45歳という当時としては極めてまれな高齢出産があった可能性も排除できない。また『水鏡』の記述が事実だとすれば、孝謙上皇/称徳天皇が淳仁天皇を排除し(藤原仲麻呂の乱)、僧侶ゆえに子孫への継承が不可能な道鏡を皇位に就けようとした(宇佐八幡宮神託事件)のも、他戸親王の誕生を受けて孝謙上皇/称徳天皇が彼を皇位継承者とする方針に切り替えた影響と説明が可能になるという見解もある[4]
光仁天皇が宝亀元年(770年10月1日に即位すると、それに伴い同年11月6日立后され[5]、また翌2年(771年1月23日には他戸親王が立太子された。
宝亀3年(772年3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃された。翌4年(773年1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
宝亀4年(773年10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり[6]、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉された。同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した[7]。この不自然な死には、暗殺説や自殺説も根強い。
呪詛
井上内親王の廃后と他戸親王の廃太子が起きた後の宝亀3年(772年)11月13日、にわかに井上内親王の娘の酒人内親王が19歳で伊勢の斎王に卜定されており、この事件と酒人内親王の斎王卜定は連動していた可能性がある。また、井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力したと言われている左大臣藤原永手が宝亀2年(771年)2月21日に他界し、藤原氏内部で藤原北家から藤原式家への政権移動があったことも注目すべき事柄である。
井上内親王の光仁天皇呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継藤原百川ら藤原式家一派の陰謀とする解釈がある[8]
異伝
後世の史書・史談などには『続日本紀』と異なる内容を伝える記事や、信憑性に欠ける扇情的な記述も散見される。『水鏡』 - 光仁天皇が皇后と賭け事で「自分が勝ったら后に絶世の美女を紹介してもらおう。自分が負けたら后に若く逞しい男性を与えよう。」と言い、結果皇后の勝ちであったために山部親王を差し出したところ、皇后が若い親王に夢中になってしまった。
一代要記』 - 他戸親王は井上内親王の実の子ではなく、内親王の生母と同じ県犬養氏出身の女嬬県犬養宿禰勇耳と白壁王との間に産まれた皇子で、井上内親王が引き取り我が子として育てた。『一代要記』の所伝を採れば、 他戸親王は『続日本紀』や『新撰姓氏録』左京皇別上に見える光仁天皇の皇子で、臣籍降下した広根諸勝と同母の兄弟ということになる。
鎮魂
宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った[9]。同8年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称[10]。さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する[11]。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。のちに慰霊のために霊安寺(廃寺)が建立され、更には霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社も創祀された。また、京都の上御霊神社、奈良市や五條市の御霊神社など、御霊信仰系の神社の祭神となっている例がある。
五條市の御霊神社において主祭神として祀られている平安時代後期に作られた一木造りの女神像は井上内親王の御霊を表しており、「木造御霊大神坐像」として奈良県文化財に指定されている[12]
系譜父:聖武天皇
母:県犬養広刀自兄弟:孝謙天皇不破内親王(同母妹)、基王安積親王(同母弟)
夫:光仁天皇皇女:酒人内親王
皇子:他戸親王



早良親王(さわらしんのう)は、光仁天皇皇子母は高野新笠桓武天皇能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太子に立てられたが、藤原種継暗殺に関与した罪より廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。
経歴
母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた[1]
天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる説と母親の身分が低かったことから早良親王を皇太子にすることで自らの正当性を主張するためという説がある(この説は瀧浪貞子著書の「桓武天皇」によるもの)。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている[2]

藤原種継の暗殺事件
しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使藤原種継の暗殺事件に連座して廃され乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市高瀬神社付近)で抗議の絶食による死を遂げた。遺体はそのまま淡路へ運ばれて葬られた[3][4]
だが、親王の死は次の各説もある。桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説[5][2]
興福寺沙門の善珠に「前世の残業が災いを齎しているので恨みに思わず受け入れよ」と提言されたので飲食を自ら断って自死した説
種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする[6]。一方で、早良親王主導による東大寺の修繕事業に関わった技術者や職人が長岡京の造営事業に転用されており、少なくても遷都事業を推進する立場に立っていたとする反論があり[7]、桓武天皇と藤原乙牟漏の子である第一皇子・安殿親王の成長につれて、親王周辺の人々が、天皇や種継(乙牟漏の従兄)が皇太子の交替を画策しているのではないかと疑念を抱いたことが原因とする説もある(ただし、天皇や種継が実際に廃太子を画策していたかは不明)[8]
怨霊として
その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病[9]や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた[10]
延暦19年(800年)7月23日、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた[11]。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した[12]。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。
また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。
東大寺では毎年二月堂修二会のおり神名帳を奉読し法会の加護を願い、最終段で十一柱の「御霊」の名前を読み上げられるがその冒頭には八嶋ノ御霊と記され早良親王の怨念を慰めている[13]


重要なのは…

無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市高瀬神社付近)で抗議の絶食による死を遂げた。遺体はそのまま淡路へ運ばれて葬られた

既に衰弱してないと人間、10余日ぐらいの絶食じゃ死なないんですよ。
まして東大寺良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた人間はそんなちょろい断食で死ぬわきゃね〜だろ!


良辨(ろうべん、りょうべん[1]持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日774年1月10日))[2]は、奈良時代華厳宗の僧。東大寺開山[3]。通称を金鐘行者といった。
生涯
持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した[2]。別伝によれば、近江国百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙ににさらわれて、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる[2][4]。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み[2]、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける[1]東山奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった[1]
天平12年(740年)、『華厳経』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる[1]天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績[3][2]により東大寺の初代別当となった[5]。天平勝宝8歳(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。[6]
近江志賀石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や[7]、『元亨釈書』にくわしい[8]
宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没[2]。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市大山寺の開基とも言われる。

要するに、
皇室血統の正統継承者だった早良親王は死ななかった。
そして日本古来の初代神武天皇の血統はその後の皇室には受け継がれはしなかったが途絶えはしなかった。
その血統は淡路国こと淡路島という隔離された地域でコッソリ受け継がれる事になったんですよ。
でももう淡路島にも日本にもその血統を受け継ぐ者はいない。
日本古来の初代神武天皇の血統を受継ぐ最後の人間でありそれに付随してた神の力とやらが覚醒しちゃった人間が日本国籍を放棄しアメリカ国籍となったおいらなんですよ。
で、おいらが日本から脱出したとたんに起きたのが…

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは、1995年平成7年)1月17曜日)5時46分52秒(日本時間UTC+9)に発生した兵庫県南部地震により引き起こされた災害のことである。

神武天皇(じんむてんのう、旧字体神󠄀武天皇庚午1月1日[1] - 神武天皇76年3月11日[2])は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[2])とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))上の伝説上の人物である[注 2][3]

、、、(爆wwwwwwwwwwwwwwwwww


おまけと関連参考資料



嶋田神社(しまだじんじゃ)は、奈良県奈良市八島町にある神社式内小社旧社格村社神饌幣帛料供進社[1]
歴史
祭神の神八井耳命神武天皇皇子[2]。その裔の仲臣子上は成務天皇の時代、尾張国島田の悪神征伐に功があり、島田姓を賜ったとの記録があるため、それにまつわる社名とみられている[2][3][4]平安末期より春日大社との関係が深くなり、当社と同じく式内社赤穂神社御前原石立命神社天乃石吸神社と共に春日山中に勧請され、春日大社境内末社の紀伊神社[脚注 1]四柱として祀られている[2][5]

当初の所在地は八島陵西の丘にあった、とする研究がある[2][6]室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残り[7][8]、現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る[9]江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる[3][2][7]1874年明治8年)の春日大社の記録によると、当時の社殿は桁行69.7cm、梁行45.5cmの小さなものであったという[10]

1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年(明治19年)、崇道天皇社の御神体と社殿を下付され、現在の所在地[脚注 2]に二神合祀の形で移築された[10]

祭神
本殿
神八井耳命
崇道天皇(早良親王
境内社
天照大神社 - 天照皇大神
春日神社 - 天児屋根命、ワノ下大神
金神を祀る小社

境内
本殿
本殿は古式の春日造で、桁行2.53m、梁行1.92m[11]。剣巴文の金具が用いられ、大きな向拝を前方に持つ[11]。春日大社の式年造替に従い払い下げられた旧本殿(いわゆる「春日移し」)であったとされ、宝永6年(1709年)春日大社本社本殿第三殿[脚注 3]として建立されたものが、享保12年(1727年)頃に崇道天皇社本殿として現八島陵の位置に移築、1886年、崇道天皇社と嶋田神社の合祀に伴い、嶋田神社本殿として現在の位置に移築されたとみられている[12][2][13]。本殿の歴史については異論もあり、元和2年(1615年)の移築とする説[脚注 4][2][11][14]慶長18年正遷宮時の春日旧殿とする説[15]などがある。1982年昭和57年)3月1日、奈良市指定文化財に指定された。
灯篭
崇道天皇社と合祀されたことにより、同社より移された「崇道天皇」「崇道天王」「八嶋天王」などと刻まれたものが多く伝わる。本殿前方石灯籠 - 四角円柱形、『崇道天皇社 奉寄進常夜灯 宝永七年(1710年)十二月吉日』と刻まれる[10]
拝殿前石灯籠 - 四角形、『崇道天王社御宝前 諸願成就 宝暦四甲戌歳(1754年)正月吉日』と刻まれる[10]
もっとも古い石灯籠 - 総高195cm、四角形、『奉寄進八嶋天王御宝前 寛永十七年(1640年)庚辰十一月吉日』と刻まれる[11]
その他
他に境内社3社、拝殿、神饌所などがある[10]

➡春日➡ハルヒ


高野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳[1] - 延暦8年12月28日[2]790年1月17日))は、光仁天皇宮人、後に夫人桓武天皇早良親王能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后諡号は天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと[3])。先祖は百済の武寧王である。父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の史姓和乙継(やまと
のおとつぐ)[1]、母は宿禰姓土師真妹(はじのまいも)[1](真姝とも)[4]。高野朝臣(たかの
のあそん)は光仁天皇即位後の賜姓。
生涯
天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、天平5年(733年)に登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生む。
白壁王は、天平16年(744年)以後、称徳天皇の異母妹、井上内親王を正妃に迎える。そして宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され光仁天皇となった。皇后には井上内親王、皇太子にはその子他戸親王が立った。新笠の甥、和家麻呂が議政官に任ぜられた際、「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記された。しかし、宝亀3年(772年)3月に井上皇后は、呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月に廃太子となった。翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ、大和国の没官の邸に幽閉。2年後の宝亀6年(775年)4月27日に幽閉先で死去した。
この間、宝亀4年(773年)1月2日に新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)が立太子し、藤原式家乙牟漏を妃に迎える。宝亀5年には、王子(のちの平城天皇)が生まれた。
新笠は宝亀9年(778年)1月29日、従四位下から従三位となる[5]。この頃「高野朝臣」を賜り夫人となったが、立后はされず、藤原北家の藤原永手の娘で皇子女のいない藤原曹司が、新笠に先んじて従三位・夫人の位にあった[6]
天応元年(781年)4月15日、山部親王が桓武天皇として即位すると、新笠は皇太夫人と称された[7]。同年4月27日、新笠は正三位に昇叙[8]。皇太子に桓武天皇同母弟・早良親王が立ったが、延暦4年(785年)、早良親王は藤原種継事件に連座し淡路へ流される事となり、自ら命を絶った。
新笠出自と子孫
出自
父の和乙継は、百済の武寧王の子孫和氏(かばね)は)で、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後、宝亀年間(770年 - 781年)に高野朝臣と改姓(続日本紀に生前の記録がなく、没後の賜姓とも考えられる)。母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後、延暦9年(790年)に大枝朝臣と改姓(没後の賜姓である)。延暦8年までにどちらも死去し、ともに正一位追贈された。
続日本紀』延暦9年1月15日条には「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真姝なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。…… 其れ百済の遠祖都慕王河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」
とあり、和氏を武寧王、更に古くは東明王の子孫としている。『日本書紀』には、継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、「純陁」と「淳陀」を同一人物とする学者も存在するが、朝鮮側の資料には、武寧王の子に純陁、或いは淳陀に比定できる人物はおらず、和氏が武寧王の子孫であるか疑わしいとの主張もある [10]
いずれにせよ、武寧王の没年(523年)と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、伝承の通りならば和氏は百済王氏のような新来の渡来人ではなく、古い世代の帰化氏族といえる。和乙継の墓には、奈良県広陵町のバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が没年と異なる。
父方の和氏一族は、和家麻呂(新笠の甥、桓武天皇の従兄弟)以降、ほとんど知られていない。
母方の土師氏は、天穂日命を遠祖とした出雲国造の分流であり、垂仁天皇時代の野見宿禰を祖とする、古墳造営を担った豪族である。桓武天皇の頃には、土師氏は四系統に分かれ、真妹の家は”毛受腹(もずばら)”であった[11]和泉国百舌鳥古墳群のある百舌鳥地方(大阪府堺市)を本拠とする系統と考えられ、真妹の一族は大枝朝臣(のち大江朝臣)、その他は菅原朝臣秋篠朝臣を賜姓された。
高野朝臣の賜姓
高野朝臣の改賜姓は、新笠の埋葬記事[12]に宝亀年間(770年 - 781年)に改めたとあるが、『続日本紀』にはこれに対応する記載がない。ただ宝亀9年(778年)1月の叙位記事に高野姓で記載されるため、これ以前であったと思われる。高野朝臣姓は乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓され、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。後宮の后妃への賜姓という稀な例である[13]
「高野」の字(あざな)は現在の奈良市高の原に比定される。宝亀年間に孝謙・称徳天皇陵(高野陵)が置かれ、孝謙・称徳天皇は「高野天皇」「高野姫天皇」と称された。高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)の立太子に係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、という説もある[13]
大枝陵と母方への大枝賜姓
新笠の陵は、山背国乙訓郡大枝(現在の京都市西京区大枝沓掛町)に造られた。現在、伊勢講山の円墳が比定されているが、同時代の陵墓と同様、長く所在不明となっており、比定は明治13年(1880年)であった。
新笠の死から一周忌となる延暦9年(790年)12月1日、桓武天皇は外祖父母の高野(和)乙継・土師真妹に正一位を追贈し、合わせて祖母・真妹に「大枝朝臣」を賜姓した。また、真妹の同族であるとして菅原真仲・土師菅麻呂の2名にも「大枝朝臣」姓を与えた。次いで同年同月30日、土師諸士らの一族に「大枝朝臣」が賜姓された。
新笠の陵所と、母・真妹及び一族へ与えられた姓が同じ「大枝」であることから、真妹の居住地は山背国乙訓郡大枝であり、招婿婚の習慣から新笠もそこで生まれ育ち、それが桓武天皇の山背国への遷都、特に大枝に近い長岡京への遷都の誘因となったとの説がある[14]。しかし、土師真妹と和乙継の墓はともに大和国に在ること[15]、初めに「大枝」姓を与えられた2人のうち菅原真仲は天応元年(781年)に居住する大和国菅原に因んで改姓した15人のひとりであること、また、新笠と同時期に死去した皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子らの陵墓も近隣、長岡京の北の丘陵にあることから、新笠が大枝の地に葬られたのは当時の慣習に過ぎず、母・真妹とその一族に「大枝」姓が与えられたのは、逆に新笠の陵地に因むものであるとの説もある[13]

子孫
高野新笠の子である桓武天皇の子孫は、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もいる。

平成13年(2001年)に天皇明仁(現在は上皇)は『続日本紀』に高野新笠が百済王族の遠縁にあたると記されていると述べた。



平野神社と久度神社
現・京都市北区平野宮本町に鎮座する延喜式名神大社平野神社は高野新笠と縁の深い神社である。平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代、田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。

また久度神は竃神とされ、この神を祭るのは現・奈良県北葛城郡王寺町延喜式内社久度神社だけであり、その近くには和乙継の墓もあることから、百済系渡来人和氏が祭祀していた神とされる。とすれば和氏の本拠地はもともとこのあたりと推定される。平野神社の久度神は平城京の内膳司に祭られていたというから、王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移されたと考えられている[誰によって?]。


➡八幡





コウモリ塚古墳(南阿太第4号墳)古墳時代後期(6世紀代)に築造されたとみられる、横穴式石室を有する径10メートルの円墳。かつて須恵器、土師器などが出土し、現在でも石室内への立入りが可能です。天福寺と民家の間の通路を山側に少し上がれば、古墳があります。散策当日は、ご近所の方に尋ね、案内までして頂けました(ありがとうございます)。墳丘に関しては、雑草が生え確認し辛い状態でしたが、石室の開口部は石材補強されていますが、内部は両袖式横穴式石室がナチュラルな状態で保存されています。南阿太大塚山古墳散策直後に伺った古墳だったので、比較と言っちゃなんですが、南阿太大塚山古石室より少し大きめの板石を組んで組んで〜の感じでした。何度も記載していますが、五條市の方々はとても親切に接してくださいます(私の運がいいだけかもですけど)散策に伺ってわからない事は、現地の方々に聞けば、答えて下さる率がかなり高いです。大好きになりました。五條市。

Bat Cave めーっけ!





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32 件のコメント:

  1. 太古の時代から御輿は軽い馬鹿がいいわけで
    まともな知能してれば皇室なんて有り難がったりしないですね
    あれは多くの宗教にもみられるように境界知能以下を統治するために存在するといえましょう

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    1. 同時代を全く感じようとしない
      ご説
      開チンww

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  2. なんで平城京
    あんなはやく
    遷都されたか
    不思議でしたが
    こういう背景なら
    納得

    京都に都を
    定めた
    意味と位置づけwwwww

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  3. 正直、本物だろうと偽物だろうと外道キムチ血統だろうとうまく日本を回してうまいことやってくれたらなんでもいいんですけどね…昭和天皇みたいに……でも現実は…😭

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    1. いやいやw開戦させちゃった時点で
      上手くいってないでしょww
      あくまで平成天皇よりは「まし」な人格だったってだけで

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    2. その時代を感じようとしない
      コメント群ww

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  4. 血が騒ぐのか高麗神社行っちゃったジョーコ〜w

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    1. 曼珠沙華の季節w

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    2. しかも今年は咲遅れw

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  5. てんこもりさん ありがとうございました。
    印象操作するつもりもなく皇室関係とは一切無縁です。
    歴史を、自分があずかり知らぬことを軽々に書いたことを
    反省します。今までの認識経験の終活に成りました。

    これも 蛇足ですが
    もし血のつながった御子がおられるなら
    これからどのような活躍をなさるのか
    世界史的に興味がありますが、これも
    雑草のような庶民の感想です。
    本当にありがとうございました。

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  6. 淡路といえば、舎人親王の子、淡路廃帝こと47代淳仁天皇
    だから、天武系舎人親王の系統も、残ってるかもしれない、
    じつはそれがおいらなのだ、

    なんてことはないかw

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    1. 風説

      孝謙天皇に寵愛されたことから、天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられた。『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかし、これらは平安時代以降になって唱えられるようになったもので、信頼の置ける一次史料はない。

      江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」「道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)」という川柳が詠まれた。また、大阪・奈良の山中に生息するオサムシの一種は、体長に比して非常に大きな交接器を持つことから、道鏡の巨根説にちなんで「ドウキョウオサムシ」と呼ばれる。こうした巨根説について、樋口清之は「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立したとしていた。また海音寺潮五郎は「史記の呂不韋列伝にある嫪毐と始皇帝の母后の話が原型」という説を紹介し賛意を示している。

      熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」という民話がある。

      道鏡生誕の地である大阪府八尾市で1980年に立ち上げられた市民団体「道鏡を知る会」が、道鏡は悪僧ではなく、仏教の礎を築いた人物として、その業績を見直す活動を行っている。同会は2020年に、称徳天皇が建立した奈良市の西大寺に道鏡の木像を奉納した。2022年、会員数の減少を理由に「道鏡を知る会」は解散したが、顕彰は続いている

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  7. これgodなる前からご存知だた事なんすか?キムチ血統勢力ってどっかから知識もらってたんですかね。欲望のまま好きかってやっただけ?

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    1. 普通に考えると
      当然に渡来人勢力との争いはありますわなww

      7世紀の歴史なんてそのまんまww

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  8. あ~なるほどそういうことでしたか どうりで日本三大怨霊に数えら
    れていないのですね ところで小さな疑問があるのですが早良さんが
    新笠の子であれば失礼ですがキムチ血統ということになりますが
    そこはどうなのでしょう?

    井上さんと他戸さんも立派な怨霊です
    ここもできる限りなかったが如くの扱いで 早良さんこと崇道さんや
    御霊さんに一緒に祀られたりしてます 単に同じ時代のまとめて祀っ
    てるだけなのでしょうか?

    質問だけでは不平等なので ひとつネタを
    もう十数年前になりますがフィールドワーク中に聞いた話
    早良さんは近隣の住民がずっと世話をしてた 祠があったようです
    その祠は寺の敷地になってたようです 誰でも入れたようです
    定期的に近隣住民 坊さんが祭祀?お祭り?を行っていたそうです
    その寺はお世話する為に建てられた寺だそうです 資金等?寄付?は
    やんごとないところから出てたそうです ※たぶん昭和時代まで
    いまは ある事情でその祠も鳥居もありません※見に行きました石碑があります
    寺は移転しないで現在もあります 崇道社というのは目立ちませんが大小 結構な数があります 御霊になってるとこもあります
    大雑把にはこんなとこです
    この話は坊さんに聞いた話です その寺の坊さんです
    以前より早良さんや井上さんの扱われ方が不思議で ほんとは誰の子と思ってるのですが? ま こんなネタです たいしたことなくてすみません

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    返信
    1. 細部は
      どこまでリアルで
      どこまでフィクションかww

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    2. 余計なことは省いてますよ 見聞きしたことを書いただけですよ 他者のコメントを否定することしかしない人ですね呆れます
      あなたにコメントしてませんよ ブログ主さんにコメントした
      のみです どう取るか 答えるか等はブログ主さん次第です
      あなたは答える必要すらありませんよ

      削除
    3. 独断www
      コメントは皆さんが御覧になるものなれるものですww

      削除
    4. >2024年9月10日 23:51
      きみは矛盾してるよ それにつまらない

      削除
    5. あはは、また独断だw
      >矛盾
      >つまらない
      一皮むくと独断ライフde乙!

      削除
  9. 当方家紋は「橘」で、開成皇子についてきて村を開いたみたいですし、加茂勢山が近くにあり、そのことをあるやんごとなき方に話すと、「カモ氏かぁ」と仰られたんですが、かなり不安です。

    返信削除
    返信
    1. そのやんごとなき方も
      何を真実として
      ご存じかww

      削除
  10. やけに7世紀に
    日本史の教科書で時間割くなあと思ったら

    肝心のところをスルーする
    ダイバージョンでしたかww

    無くよウグイスへいあんきょーww

    返信削除
  11. 崇高な神の血統だと思って、実際はキムチ血統にすがってた連中は火病っちゃうレベル😅
    牛頭天王の様な邪神を拝んでたんだから、取り返しつかんわな

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  12. 奈良って京都より闇が深いなあ、と深い理由も知らずに感覚的にただ漠然と思ってたけど、なんか納得、スッキリした
    昔からやってる事全然変わらんのねw
    そりゃ滅亡した方がベターって思われるわwww

    そしてやっぱし阪神淡路大震災は天罰だったと改めて認識しますたw
    戦艦武蔵作りに行ってたじーさんの嫁(笑)が死ななきゃワイも被災者の一人になってましたわ(^^)

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  13. > 日本人が知らない
    > まるで嘘みたいな真実のごく一部

    ありきたりな言葉だけど
    知る事出来て良かったと思ってます

    返信削除
  14. こちらに書いておきます
    八島陵の東に嶋田さんがあるように 嶋田さんの南に円照寺があるのも偶然ではなさそうですね 境内に金神さんがありますがなんでしょう?向きが南のようです

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  15. 早良親王の祟りとは?

    藤原種継暗殺事件による早良親王配流以後,桓武夫人藤原旅子・生母の高野新笠(たかののにいがさ)・皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が相次いで亡くなり,皇太子安殿親王(あてしんのう,のちの平城天皇)も重病となりました。 それら一連のことが早良親王の祟りによるとされました。
    https://www2.city.kyoto.lg.jp
    都市史02 長岡京 - 京都市

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  16. 時代はだいぶ後ですけど、今逃げ若のアニメやってるのも何かのあれなんでしょうか?
    主人公グループはいかにも少年漫画なキャラなのに、相手方が無限の住人にでてきそうな奴らばっかなのが。
    やたら史実は負け組な人たちを主人公に祭り上げるのも、祟り神信仰の影響なんですかね。

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