7/24/2024

日本製鉄 中国 宝山鋼鉄との合弁を解消.LoL



日本製鉄 中国 宝山鋼鉄との合弁を解消 事業から撤退と発表
2024年7月23日 19時03分

日本製鉄は中国の鉄鋼メーカー「宝山鋼鉄」との合弁事業を解消し、事業から撤退すると発表しました。1970年代の技術支援から中国の鉄鋼産業の近代化に関わってきましたが、半世紀にわたる関係は大きな節目を迎えることになります。
日本製鉄は、世界最大手の鉄鋼メーカーグループ「中国宝武鋼鉄」の傘下にある「宝山鋼鉄」との間で2004年に合弁会社を設立し、自動車向け鋼板の製造や販売を行ってきました。
この合弁事業の契約期間が来月に期限を迎え、日本製鉄は、契約の更新を見送り、事業から撤退することを決めました。
保有する合弁会社のすべての株式は、宝山鋼鉄に日本円でおよそ360億円で売却するということです。
中国市場では、EV=電気自動車の普及に伴って日本の自動車メーカー各社が販売で苦戦し、撤退などの動きも出ています。
こうした中、日本製鉄は、今後の事業の成長が難しいと判断したとみられます。
その一方で、会社は、アメリカの大手鉄鋼メーカー「USスチール」の買収を計画していて、今後は、アメリカやインド、東南アジアでの事業に注力していくとしています。
日本製鉄は、1970年代に日中の経済協力の柱として技術支援を行い、中国の鉄鋼産業の近代化に大きな役割を果たしましたが、現在、中国は世界最大の鉄鋼生産国となっています。
今回の合弁事業の撤退でおよそ半世紀にわたる関係は大きな節目を迎えることになります。
日本製鉄と中国の鉄鋼業との関係
日本製鉄と中国の鉄鋼業との関係は1972年の日中国交正常化をきっかけに始まりました。
2国間の経済協力の柱としてまず、現地の鉄鋼メーカーへの技術支援のプロジェクトが行われます。
その後、宝山鋼鉄の高炉の建設の支援も行い、1985年の稼働開始につなげました。
一方、中国側からは、1978年に当時の※トウ小平副首相が来日した際、当時の新日鉄の君津製鉄所を視察し、中国にとって日本の鉄鋼業の重要性が増していることを印象づけました。
その後、中国では経済成長に伴って自動車の生産や販売が拡大し、自動車向け鋼板の需要も拡大します。
これに対応するため、新日鉄は2004年に宝山鋼鉄との間で合弁会社を設立し、現地での自動車向け鋼板の生産や販売を行ってきました。
この間、中国は世界最大の鉄鋼生産国となり、GDP=国内総生産でも日本を抜いて世界第2位の経済大国となりました。
技術支援から始まった日本と中国の鉄鋼業は、大きく姿を変え、今回の合弁解消でおよそ半世紀にわたる関係が大きな節目を迎えることになります。
※「トウ」は「登」に「おおざと」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240723/k10014520461000.html


 


宝山鋼鉄股份有限公司(ほうさんこうてつ こぶんゆうげんこうし)は、中華人民共和国(中国)上海市に拠点を置く鉄鋼メーカー。宝鋼集団(旧・上海宝鋼集団)傘下で、中国の大手鉄鋼メーカーである。略称は宝鋼股份(ほうこうこぶん、中国語: 宝钢股份)。1977年11月に新日鉄会長稲山嘉寛が訪中した際に副主席先念から建設協力要請で建設された宝山鋼鉄(集団)公司が前身[1]



韓国への技術供与

浦項総合製鉄(現在のポスコ)の当時[いつ?]の社長の朴泰俊(のち名誉会長、韓国首相)は「物を盗むのは泥棒で悪いことだが、心を盗むのは良いことで戦略的なこと」と誇り、稲山を「いろいろと助けてくれた。心が開かれた方だった」とした。
103万トンの1次高炉が成功した後、稲山に会いにいった時、朴が日本の最新流行歌を多く知っていたので、稲山が自分の車に同乗させ、歌ってみろと言ったので歌ってみせると「『よくやった』と言って大喜びした。 それほど親しかった」とエピソードを明かし「親しくなってこそ全てを持ってこられる。こうした戦略がなければ技術は導入できない。このように人間の心を盗んでこそ技術まで、願うものを持ってくることができる」と語っている[2]

朴曰く、稲山は全面支援を約束したが、製鉄所の現場は世界最高の技術をなぜ他人に譲らなければいけないのかと、上からの命令に抵抗した。製鉄所のアイデンティティーといえる規定集(製鉄技術マニュアル集)、図面設計、機械の性格を日本の先進製鉄所からほとんどすべて導入することができた[3]

朴は稲山が「日本が数十年にわたった韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも、同事業(浦項製鉄の事業)に協力するのが当然であると力説された」と述べている[4]


なお稲山の死後、1990年代には新日鉄を退職した技術者がポスコに技術を流出させ、のちにポスコと新日鉄住金は訴訟で争うこととなった[5][6]

家族 親族三男 稲山孝英ヤナセ第3代社長) – 妻はヤナセ第2代社長梁瀬次郎の娘[7]
その他の親戚 赤城宗徳(政治家)、鹿島守之助(実業家)など


鹿島 守之助(鹿嶋 守之助[8]、かじま もりのすけ、明治29年(1896年2月2日 - 昭和50年(1975年12月3日)は、日本外交官実業家政治家参議院議員(3期)。位階正三位北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者法学博士鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」[9]戦前よりアジア地域統合「パン・アジア」(アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。


site://tokumei10.blogspot.com 鹿島守之助 

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6 件のコメント:

  1. さっさと切っておけば
    人材不足から来る
    日本国内の数々の
    火災や流出や転落
    防げたかもしれないのに

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  2. ちゅーちゅー終わったからポイッて感じでしたかね…

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  3. >宝山
    会津磐梯山w

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  4. そういや昨晩嫁が寝てる時にたまたまこの番組見てたら
    甲賀の末裔さんが出てはりましたなあw
    https://www.nhk.jp/p/ts/M31M355Q4M/

    ナレーションは二代目次元大介なのねw

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