7/23/2024
30日午後、福岡市の海水浴場で幼い子ども2人が沖に流され、その後、救助されましたが男の子1人が意識不明の重体です。 この動画の記事を読む> https://news.ntv.co.jp/category/socie... 警察によりますと、30日午後3時すぎ、福岡市東区志賀島の海水浴場で、幼い男の子と女の子が鳥のような形をした浮き輪に乗ったまま沖に流されました。 2人はその後、漁船に救助され、男の子は福岡市内の病院に搬送されましたが、意識不明の重体です。 女の子にケガはありませんでした。 2人は友人同士で、大人と一緒に海水浴に来ていたということで、警察が当時の状況について調べています。 (2024年7月30日放送)
志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する[1]。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
社名
志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文[原 1] では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという[2]。
社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある[3]。
祭神
祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている[1]。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される[1]。左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
祭神について
祭神のワタツミ(海・綿津見・少童)三神は、「海 = ワタ・ワタノハラ」という古名に見えるように、海の神とされる[4]。『古事記』『日本書紀』の神産みの段では、禊ぎにおいて住吉三神とともに生まれた神として次の記載が見える。『古事記』誕生した三神の底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を「綿津見神」と総称し、「阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり」と記す[5]。
『日本書紀』「生めりし海神等を少童命と号す」と述べたのち、誕生した三神の底津少童命・中津少童命・表津少童命について「阿曇連らがいつきまつる神なり」と記す[5]。
このように、ワタツミ三神は記紀においては阿曇氏(あずみうじ/あづみうじ、安曇氏・阿曇族・安曇族)の祖神または奉斎神とされている[2]。阿曇氏の読み「アズミ/アヅミ」もまた「アマツミ(海津見)」の略とも見られるように、この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった[5]。
『先代旧事本紀』[原 2] では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており[3]、「筑紫斯香神(つくしのしかのかみ)」の名で志賀海神社が氏神に挙げられている[3]。
なお、ワタツミ以外の主な海の神としては、スミヨシ(住吉三神:住吉族が奉斎)・ムナカタ(宗像三女神:宗像族が奉斎)が知られ、九州北部にはそれぞれを祀る住吉神社・宗像大社が鎮座する。
創建
創建は不詳[1]。社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという[1]。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている[1]。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる[1][3]。
古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる[6]。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯[注 1] が阿曇氏の本拠地であったとされており[6]、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている[2]。現在も志賀島の全域は神域とされ[7]、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している[6]。なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」・「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる[1]。
また志賀島は金印(漢委奴国王印)が出土したことで知られるが、当地で奴国の印が出土した理由は明らかではなく、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社と奴国の関わりを推測する説もあり、同東区名島の名島神社では阿曇氏を儺(那)懸主であるとしている[8]。
記録上は、天平3年(731年)の日付(実際は平安時代前期頃の成立か)の『住吉大社司解(住吉大社神代記)』に「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として記載が見える[2]。また『新抄格勅符抄』[原 3] では、大同元年(806年)時点で「阿曇神」に神封(寄進された封戸)として8戸があったと見える[2]。
国史によると、天安3年(859年)[原 4]に「志賀海神」の神階が従五位上に、元慶4年(880年)[原 5]に「賀津万神」(仲津宮に比定)が従五位下に昇叙されている[2]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国那珂郡に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している[6]。
志賀海神社に関するそのほかの平安・鎌倉期の史料は数少なく[6]、『小右記』[原 6] に万寿3年(1026年)に志賀海神社社司が入宋し、翌年に帰国したという記録が見える程度である[2]。
鎌倉時代、元寇の際には志賀島は戦場となったが、志賀海神社境内は『蒙古襲来絵詞』に「志賀島大明神」の名称で記載されている[2]。
南北朝時代以降、志賀海神社は武家の支配を強く受けた[2]。応仁3年(1469年)には少弐頼忠が対馬東月寺の住持に志賀島宮司職が安堵されており[2]、その後は大内氏から庇護を受けた[6]。また志賀海神社では、明に渡航する前に航海の無事が祈願されていた[2]。
近世には、筑前国を治めた小早川氏・黒田氏の庇護を受けた[6]。慶長5年(1600年)に入国した黒田長政により、神殿・拝殿・楼門等が造営されたという[2]。また、文化14年(1817年)の社領は50石であった[2]。
明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列し、大正15年(1926年)に官幣小社に昇格した[3]。
神階天安3年(859年)1月27日、志賀海神を従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)[原 4]
元慶4年(880年)3月22日、賀津万神を正六位上から従五位下 (『日本三代実録』)[原 5] - 神名「賀津万(かつま)」から、摂社・仲津宮(勝馬明神)に比定される[2]。
境内
境内は志賀島の南側に位置する。かつて志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたという[1]。うち表津宮が当地に遷って現在の本社となり、仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その表津宮跡は福岡市東区勝馬に伝えられている(北緯33度41分13.00秒 東経130度17分32.74秒)。
境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある[3]。
参道には石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で[9]、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である[9]。花崗岩製で、基礎・塔身・笠部・相輪から成り、総高は334.5センチメートル[9]。この塔は福岡県指定有形文化財に指定されている[10]。
一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営[2]。次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営[2]。
全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する[1]。龍の都と称えられ、古代氏族の阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。
社名
志賀島の島名でもある「志賀」の語源について、『筑前国風土記』逸文[原 1] では、神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したという[2]。
社名「志賀海」は、現在「しかうみ」と呼称されるが、本来の呼称については「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説がある[3]。
祭神
祭神は、次のように左・中・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている[1]。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される[1]。左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
祭神について
祭神のワタツミ(海・綿津見・少童)三神は、「海 = ワタ・ワタノハラ」という古名に見えるように、海の神とされる[4]。『古事記』『日本書紀』の神産みの段では、禊ぎにおいて住吉三神とともに生まれた神として次の記載が見える。『古事記』誕生した三神の底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を「綿津見神」と総称し、「阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり」と記す[5]。
『日本書紀』「生めりし海神等を少童命と号す」と述べたのち、誕生した三神の底津少童命・中津少童命・表津少童命について「阿曇連らがいつきまつる神なり」と記す[5]。
このように、ワタツミ三神は記紀においては阿曇氏(あずみうじ/あづみうじ、安曇氏・阿曇族・安曇族)の祖神または奉斎神とされている[2]。阿曇氏の読み「アズミ/アヅミ」もまた「アマツミ(海津見)」の略とも見られるように、この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった[5]。
『先代旧事本紀』[原 2] では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており[3]、「筑紫斯香神(つくしのしかのかみ)」の名で志賀海神社が氏神に挙げられている[3]。
なお、ワタツミ以外の主な海の神としては、スミヨシ(住吉三神:住吉族が奉斎)・ムナカタ(宗像三女神:宗像族が奉斎)が知られ、九州北部にはそれぞれを祀る住吉神社・宗像大社が鎮座する。
創建
創建は不詳[1]。社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという[1]。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている[1]。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる[1][3]。
古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる[6]。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯[注 1] が阿曇氏の本拠地であったとされており[6]、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている[2]。現在も志賀島の全域は神域とされ[7]、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している[6]。なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」・「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる[1]。
また志賀島は金印(漢委奴国王印)が出土したことで知られるが、当地で奴国の印が出土した理由は明らかではなく、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社と奴国の関わりを推測する説もあり、同東区名島の名島神社では阿曇氏を儺(那)懸主であるとしている[8]。
記録上は、天平3年(731年)の日付(実際は平安時代前期頃の成立か)の『住吉大社司解(住吉大社神代記)』に「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として記載が見える[2]。また『新抄格勅符抄』[原 3] では、大同元年(806年)時点で「阿曇神」に神封(寄進された封戸)として8戸があったと見える[2]。
国史によると、天安3年(859年)[原 4]に「志賀海神」の神階が従五位上に、元慶4年(880年)[原 5]に「賀津万神」(仲津宮に比定)が従五位下に昇叙されている[2]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国那珂郡に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している[6]。
志賀海神社に関するそのほかの平安・鎌倉期の史料は数少なく[6]、『小右記』[原 6] に万寿3年(1026年)に志賀海神社社司が入宋し、翌年に帰国したという記録が見える程度である[2]。
鎌倉時代、元寇の際には志賀島は戦場となったが、志賀海神社境内は『蒙古襲来絵詞』に「志賀島大明神」の名称で記載されている[2]。
南北朝時代以降、志賀海神社は武家の支配を強く受けた[2]。応仁3年(1469年)には少弐頼忠が対馬東月寺の住持に志賀島宮司職が安堵されており[2]、その後は大内氏から庇護を受けた[6]。また志賀海神社では、明に渡航する前に航海の無事が祈願されていた[2]。
近世には、筑前国を治めた小早川氏・黒田氏の庇護を受けた[6]。慶長5年(1600年)に入国した黒田長政により、神殿・拝殿・楼門等が造営されたという[2]。また、文化14年(1817年)の社領は50石であった[2]。
明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列し、大正15年(1926年)に官幣小社に昇格した[3]。
神階天安3年(859年)1月27日、志賀海神を従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)[原 4]
元慶4年(880年)3月22日、賀津万神を正六位上から従五位下 (『日本三代実録』)[原 5] - 神名「賀津万(かつま)」から、摂社・仲津宮(勝馬明神)に比定される[2]。
境内
境内は志賀島の南側に位置する。かつて志賀海神社は志賀島の北側において、表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたという[1]。うち表津宮が当地に遷って現在の本社となり、仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その表津宮跡は福岡市東区勝馬に伝えられている(北緯33度41分13.00秒 東経130度17分32.74秒)。
境内の鹿角堂(ろっかくどう)では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また「亀石(かめいし)」として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある[3]。
参道には石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ。宝篋印塔とは仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で[9]、当塔は南北朝時代の貞和3年(1347年)の銘を持ち、完存では福岡県内最古である[9]。花崗岩製で、基礎・塔身・笠部・相輪から成り、総高は334.5センチメートル[9]。この塔は福岡県指定有形文化財に指定されている[10]。
一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営[2]。次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営[2]。
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