Jan 10, 2025
インフルエンザ患者の数が過去10年で最多のペースで急増しているとして山梨県が緊急で会見を開き、「かつてない感染爆発」と警鐘を鳴らしました。入院者も急増していて、9割の医療機関で患者の受け入れが逼迫(ひっぱく)しているということです。 山梨県感染症対策センター 井上修医師 「定点あたりの報告の数が例年になく多い。過去10年くらいを見ても、この規模の流行・経験がないくらい」 山梨県では先月29日までの1週間に報告された感染者数が1医療機関あたり87.15人と過去10年で最多となっていて、県内全域に「インフルエンザ警報」が出されています。 山梨県韮崎市などを管轄する中北保健所の管内では125.08人となりました。 100人を超えるのは過去10年間で初めてです。 入院者も急増していて、9割の医療機関で患者の受け入れが逼迫しているということです。 県は今月11日からの3連休を前に、マスクを着用するなどして健康管理を徹底するように呼び掛けています。
1/05/2025
釜無川(かまなしがわ)にかかる双田橋。LoL
https://jyado.blogspot.com/2025/01/1-15-1850-ybs-1-54201448-1052025-lol.html1/05/2025
部屋に聖母マリアの絵が掛けられていた日夏耿之介(小林十三の親戚)の同人誌『聖杯』と日本民俗学の創始者、柳田國男。LoL
https://jyado.blogspot.com/2025/01/lol_42.html釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などを源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。北杜市にて山梨県域に入ってから尾白川、塩川、御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し、西八代郡市川三郷町と南巨摩郡富士川町の町境で笛吹川と合流する。ここまでを釜無川と呼ぶ。釜無川の名前の由来には諸説あり、上流の「釜無山」にちなむというもの、釜のような深い淵がないことにちなむもの、釜のふちのような堤防がないことにちなむもの、川の水が温かいので釜が必要ないからというもの、巨摩郡を貫流する大河のゆえに「巨摩の兄(こまのせ)川」というもの、「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである[1][2]。
1/07/2025
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峡中
返信削除釜無川流域を西限に甲府盆地の西半分に位置する地域。北側は奥秩父山塊が連なるが、南側はほぼ平地である。四方を山に囲まれているためフェーン現象の影響を受けやすい。この一帯は「甲府広域市町村圏」となっており、位置的だけでなく経済的にも「峡(甲斐)の中央」である。
「峡中」の地域呼称は江戸時代から見られ、荻生徂徠『峡中紀行』など本来は国中地方の内部呼称ではなく、甲斐国全域を指す地域呼称として用いられていた。明治4年の廃藩置県を経て、甲斐国の府県名は国中三郡の山梨郡に由来する「山梨県」となったが、明治初期には「山梨県」の府県名に抵抗があり自由民権運動における『峡中新報』や民権派政党名などに盛んに用いられ、郡内地方においても受け入れられていた。明治20年代には「峡中」の使用が減り県全体を指す地域呼称として「山梨」が用いられるようになり、現在はメディアなどを通じて国中地方における地域呼称として定着している。
峡北
八ヶ岳を西端とし、甲府盆地の北西部に位置する地域。釜無川を挟んで南側に赤石山脈(南アルプス)、北側に奥秩父山塊がある。八ヶ岳周辺は山岳高原地であるため夏は涼しい一方、冬は「八ヶ岳おろし」という季節風が甲府盆地方面へ吹くため非常に寒く感じる。また比較的に天気が安定しており、年間日照時間が長い地域であることも知られる。戦国時代は馬産地として知られ、武田勝頼によって新府城が建てられたりもした。またバブル景気が到来すると清里高原などでリゾート開発が行なわれている。武川米など県内随一の米どころであるほか、ミネラルウォーターの水源が多く存在する。
平成の大合併後に地域振興局が再編され、峡中・峡西地域を管轄する「峡中地域振興局」と峡北地域を管轄する「峡北地域振興局」が統合され「中北地域県民センター」となった。このため峡中・峡西・峡北の地域は新たに「中北地域(ちゅうほくちいき)」と呼ばれ、峡東地域・峡南地域とあわせて天気予報などでも使われ始めている。
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