11/28/2024
自民党の佐藤正久参議院議員に殺害予告した疑い 北海道の公立高の教員逮捕
12/2(月) 23:57配信
おととし7月、自民党の佐藤正久参議院議員宛てに殺害を予告する文書を送り、脅迫した疑いで、北海道・雄武町の公立高校の教員、池村啓容疑者(65)が逮捕されました。 文書には、安倍晋三元総理を殺害した罪に問われている山上徹也被告に対し、佐藤議員が自衛隊で銃の作り方や使い方を教えたとしたうえで、「安倍晋三を倒すことができました」「今度は、あなたの番です」などと記されていました。 警視庁は、別の複数の国会議員に対する余罪があるとみて調べています。
ヘアポ隊長、雄武町(オウム町)の池村啓容疑者(65)に落ちこぼれの自衛隊野郎呼ばわりされてしまう。
https://tokumei10.blogspot.com/2013/09/blog-post_4.html
➡シリア
2013年9月10日火曜日
:高木繁光@元日本消防協会会長死去
訃報:高木繁光さん 84歳=元北海道議、高木宏寿衆院議員の父
毎日新聞 2013年09月10日 大阪夕刊
高木繁光さん 84歳(たかぎ・しげみつ=元北海道議、高木宏寿衆院議員の父)10日、心不全のため死去。通夜は13日午後6時、葬儀は14日午前9時、札幌市豊平区豊平4の3の2の5の北海斎場。自宅は同区月寒西1の3の1の15。喪主は妻美子(よしこ)さん。1975年に道議に初当選し8期を務め、日本消防協会会長などを歴任した。
http://mainichi.jp/area/news/20130910ddf041060014000c.html
元火消しの親分ですな・・・(whttps://tokumei10.blogspot.com/2013/09/blog-post_5844.html
11/30/2024
【雄武】田口源太郎 (下)
岩野泡鳴
道議源太郎と文豪岩野泡鳴
陸軍教導団の仲間と漂々隊をつくり、北オホーツで一旗揚げた源太郎は、道議会議員となって開拓に尽力しました。その様子を明治文豪・岩野泡鳴が自伝小説に書き残しています。そこには自然主義文学の大家によって描かれた等身大の源太郎がありました。
■源太郎の理想
明治40(1907)年代の道議の視察は馬によって行われたようです。源太郎と岩野泡鳴、そして道庁の技官の3人による視察隊は、札幌駅から記者で岩見沢に行き、そこから汽車を乗り換えて日高路を目指し、現在の厚真町で下車。そこから馬の旅となりました。現在の東静内まで来たとき、源太郎はこう言います。
「どうです。この辺の田園的風致は! わたしの理想は北海道中至るところにこういう村をあつらえさせたいのです」[1]
これに対して泡鳴は「進んで簡単に淡路団来道当時の事情」を語って聞かせます。東静内は、淡路島徳島藩の洲本城代家老稲田邦植の旧家臣546名が開いたまちです。そして岩野泡鳴は洲本城に出仕ししていた徳島藩士の家の生まれだったのです。稲田家が北海道に渡ることになった事情を誰よりも知っていました。
「は、はぁ」遠藤は感心して「そういう悲惨なことが原因になって、こういう美し村落ができたのです、なぁ」[1]
岩野家は稲田家を監視するように徳島藩から遣わされた家らしく、この稲田家騒動では迫害されたようです。
周囲20里、面積1万3200町歩、放牧区域72区、各区をめぐる牧柵の延長70里に逹する大牧場――。高台の放牧地は、天然のままだが、造った様に出来ていて、あたかも間伐したかの如く、樹木がいい加減に合いを置いて生えている地上には、牧草が靑々と育って、実に気持ちのいい景色だ。
『あれをみな買おうと思いますが、なア』と、遠藤は物思わしげに云う。
遠藤を北見に一大牧馬揚を持っている。それが、昨年不時の大雪の為めに、放牧の馬と共に、一夜のうちにー丈ばかりも下に埋められた。そのまま凍死した馬が多かったが、少数 は積雪の中から首だけ出していたので、辛うじて掘り出すことが出来た。その埋め合せに、一層いい種類の馬を買いたいので、渠は御料牧場をーつにはおもな目的にして来たのだと語った。
「人間なら、とても、そんな馬鹿らしい真似はしておりますまいが」と、渠は矢ッ張り凍死した馬どもを思いやる様子をして、「然しそこがまた馬の可愛いところです。いつも人間を信じて、人間の云いなり放題になっておるところへ持って来て、いきなり、ひどい雪に会うたのだから、溜らない。強い奴こそあせって、首だけでも出しておったから助かったものの、弱い奴は丸でもがき死をした様なものだ」[1]
こんな話ししながら、今夜の浦河の宿に一行は入りました。名士の来着に歓迎会が開かれます。
その席で、遠藤は、一場の演説をしたが、その紳士的態度に義雄も少なからず感服して、それに花を持たせるため、義雄自身には融資から頼まれた演説も断った。これは、一つには、北海メール記者とばかり思い過たれるのを好まなかったにも拠るのである。[1]
文中の「北海メール」は「北海タイムス」(現在の道新)と思われます。文学者であった泡鳴は北海タイムスの同行記者として源太郎の視察旅行に随伴し、そのレポートをタイムスに送るという任務もあったのです。
ここで臨時の道議会が開かれることになり、源太郎は一旦札幌に戻ることなります。そして十勝地方を視察して自分に報告してくれるよう泡鳴に頼みます。
■源太郎、房子を射止める
最期に『雄武町史』が語るちょっと面白いエピソードを紹介して閉じます。田口源次郎婦人田口房子とのなれそめのエピソードです。房子は函館遺愛女学校出身のクリスチャンで札幌北星学園創設のクリスチャンとして知られます。この房子を巡って遠軽の地にキリスト教による理想都を建設しようとした北海道同志教育会の会長の信太寿之と争い、房子のハートを射止めたという話が、源太郎の評伝『道政七十年』からの引用として紹介されていました。
信太寿之
北星高女学校長ニス・シー・スミスの秘蔵弟子に川崎房子といふ才媛があった。日耀日の日本基督教会は川崎房子来るとあって賑はったものである。如何なる幸運児がこのオ媛を獲るものぞ。けれどスミスの監督が厳重なるため擬似クリスチャンも根気がつきて退却したが、頑強なる二人の競争者があった。田口源太郎と信太寿之であった。
信太は後年の道会議員で、これは押川方義の子分で、ともかく信者であった。田口は教導団出身の軍曹で北見に漂々隊といって友人等とピストルなど携へて漂白し、農漁業と様々なことに手を出し成功の緒についた男だ。
将を得んとすれば馬だ。スミス婆さんの首を縦に振らせるにはキリストを拝まなくてはならぬ。そこで速成の信者となって接近し、信太をはるかに後に見てゴールインしたのである。今の田口源太郎夫人がそれである。源太郎はその後イエス様を拝まない。それもそのはず彼は耶蘇とはおよそ縁の遠い法華だ。[2]
11/27/2024
「南5条辺は茅野なり」。LoL
薄井 龍之(うすい たつゆき)は、江戸時代末期の志士、明治時代の判事。通称は督太郎。字は飛虹、号は小蓮。
略歴
信濃国飯田城下の醤油醸造業者の家に生まれる。18歳で江戸へ出て、昌平坂学問所の学僕となり、勉学に勤しむ。上洛して頼三樹三郎に師事し、尊皇攘夷思想を吹き込まれる。江戸に戻り、野田笛浦や佐久間象山に学ぶ。安政の大獄で師の頼三樹三郎は捕縛されるが、救出を試みて失敗し、薄井も日本橋小伝馬町で入牢した。その後、脱獄して水戸へ逃れ、武田耕雲斎の元に身を寄せる。元治元年(1864年)天狗党の乱に参加。しかし途中で脱退し、越前まで同行しなかったため、処刑は免れた。大政奉還後は新政府の軍監として奥羽を歴戦した。
明治維新後は岩倉具視の知遇を得て、開拓監事、山形県参事、東京裁判所判事、名古屋裁判所長、秋田裁判所長などをつとめた。
開拓監事時代に札幌の公設遊廓の建設に関わった。これが薄野遊廓であり、「すすきの」の地名は薄井の名に由来して岩村通俊に名付けられたというのが通説となっている[1]。大正5年(1916年)死去、享年88。墓所は青山霊園にあり、妻の貞子とともに眠っている。「薄野」(すすきの)の名称については、開拓使によって遊廓を設置する際に工事監事であった薄井龍之の姓に因み、当時の開拓判官であった岩村通俊が名づけたという説と[12][13]、地名を起源にしたという説(1869年(明治2年)の地図では、札幌一帯がことごとく「茅野(茅は芦、ススキ、スゲなどの総称で、特にススキを指す場合もある)」となっており[14]、当時の開拓使役人の回想でも「南5条辺は茅野なり」と述べられている[14])の2説がある[12][14]。前者の説については、札幌開府の請負総元締・中川源左衛門が岩村から直接見聞きした話とされていることから、後者よりも信憑性が高いとしている資料は多い[12]。また中川によると、測量を担当した藤井小主典が薄井の名のみが地名に残ることを悔しがったとめ、苦笑した岩村が薄野の一角を取って「藤井町」と命名したという[12]。1872年(明治5年)頃、薄野には「藤井町」の他、「仲の町」「柳川町」という地名もあったが、同年布告された人身売買禁止令に伴い、翌1873年(明治5年)に「福島通」「津軽通」「上磯通」などと改称され、さらに1881年(明治14年)に条丁目に統一された[13][15]。現在の南4条西3丁目と南5条西3丁目の境目に当たる通りが「仲町」と呼ばれるのは、昔の名残だと言う[16]。茅野 愛衣(かやの あい、1987年9月13日[3][4] - )は、日本の女性声優。大沢事務所所属。東京都出身[2][3][4]。
主な出演作は、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(本間芽衣子)、『氷菓』(伊原摩耶花)、『ノーゲーム・ノーライフ』(白)、『ガールズ&パンツァー』(武部沙織)、『戦姫絶唱シンフォギア』(暁切歌)、『ソードアート・オンライン アリシゼーション』(アリス)など[5][6]。英国王室と英国教会(アングリカン)はアウトやね。https://jyado.blogspot.com/2024/11/5lol.html
政府命令で淡路島から北海道に移住した人々、苦難の歴史越えGI馬を育てた子孫も
2021/09/14 14:59
明治初期の 庚午こうご 事変(1870年)を機に、兵庫県の淡路島から北海道への移住が進んだ歴史をたどるパネル展が、南あわじ市で開かれている。移住開始150年を記念して企画。徳島藩のお家騒動で遠く離れた北の大地へと移るよう命じられた稲田家の家臣団や、開拓で渡った農家の苦難と功績を伝えている。(山口博康)北海道に移住した淡路島民のパネルを紹介する高田会長
庚午事変は、徳島藩主である蜂須賀家の家臣が、分藩独立を目指していた洲本城代・稲田家の家臣を襲撃した事件で、37人が死傷した。淡路島が、兵庫に編入されるきっかけになったといわれる。
稲田家の家臣らは、北海道静内郡(現新ひだか町)の開拓を政府に命じられ、500人以上が移り住んだ。これを呼び水に、南あわじ市の農家を中心として淡路島出身者の移住が相次ぎ、明治、大正期に約1万5000人が移ったという。島民の子孫との交流を伝える三宅さん
パネル展は、稲田家が洲本市内に開いた学問所「益習館」の歴史を伝える市民団体「益習の集い」(高田知幸会長)が、150年の節目に合わせ、南あわじ市湊のショッピングセンター「シーパ」で開いている。
庚午事変から現在に至る歴史に加え、移住者やその子孫たちが北海道議会議長や町長などを務めたり、GIレースを制する競走馬を育てたりしたことを紹介。淡路島にルーツを持つ人たちが北の大地に根を張り、力強く生きた姿を伝えている。
「集い」のメンバーが北海道を訪れ、子孫らと交流した写真も展示した。開拓については、島出身者以外の写真も使い、当時の苦労をしのばせるコーナーを設けた。
その 凄惨せいさん さから、庚午事変はかつては語られる機会が少なく、島内の子孫でも、北海道に親戚がいる理由を知らなかった人もいたという。
「益習の集い」の会長を長く務めた三宅 玉峰ぎょくほう さん(68)も、高祖父が稲田家家臣で、襲撃を受けて自決したと知ったのは30年ほど前のこと。三宅さんは「亡くなった方や北海道で頑張った方を忘れないためにも、史実を伝え、交流を発展させていきたい」と話している。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210914-OYT1T50128/
庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを一方的に襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。
経緯
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府にあたって植元は蜂須賀家の「客分」となった。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった。このような経緯から[1]主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が生じることとなった[要出典]。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣[2]の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず[3][4]、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地[5]に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。
政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであった。
当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島藩側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に藩主蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹[6]になった)。これは日本法制史上、明治以降において行われた切腹刑の事例である(2年後の1872年(明治5年)11月4日に金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち(明治の忠臣蔵と言われている)により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人(本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎)[7][8]の切腹刑を最後に、死刑執行方法としての切腹は1873年(明治6年)廃止。)。首謀者数名が徳島県徳島市住吉の蓮花寺(1丁目)にて切腹した。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。なお、八丈島への流人船の中には伊豆大島波浮港に寄港した船があり、4人の徳島藩士(織田角右衛門、今田増之助、平瀬所兵衛、稲垣軍兵衛)がそのまま丁重に遇されたが、間もなくコレラと思われる病気で亡くなり、大島の妙見山墓地の一画に埋葬された[9]。
知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、徳島藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡(稲田氏知行地)は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている[10]。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、池澤夏樹の小説『静かな大地』、映画『北の零年』でも描かれている。
明治初期に同地で生まれ育った作家・岩野泡鳴によると、稲田事件以来、藩主蜂須賀氏の直参派と稲田氏の城代派とは家来同士睨みあうところとなり、子供同士の交際ですら親たちは好まなかったという[11]。直参派は城代派を一階級下の陪臣者として見下し、城代派は直参派を他国者として侮蔑しており、直参派の子孫である泡鳴も、その浜屋敷の大門を一歩出ると敵国の中にいるような気がして、小学校へ通うのもまるで敵の目を掠めていくようなものであったという[11]。
明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県津名郡の一部が兵庫県になっていたが、11月15日(12月26日) - 淡路島全島を名東県(阿波国・淡路国・讃岐国)に編入。
明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合。名東県より淡路島全域が兵庫県に移管される。
洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、事件当時のことを綴った稲田家臣の手記などが展示されている。
2013年4月13日土曜日
古代ユダヤ人ガー!連呼も空しく現本家こと脱亜細亜ラインから勝利宣言
淡路島が揺れてるようですので、投下しなかった記事にちょっと追記して投下ずら。(w
そう言えばおいらの曽祖父は淡路島出身の宗教家だったような・・・(爆w
→青山
その三家とは藤林長門守を当主とする藤林家、百地丹波を当主とする百地家、そして服部半蔵を当主とする服部家です。
→出口王仁三郎
ホントは・・・
site:tokumei10.blogspot.com 小豆島「旅日記 天草 2」 via kwout
https://tokumei10.blogspot.com/2013/04/blog-post_798.html
LoLLoLLoLLoLLoLLoLLoL
LoLLoLLoLLoLLoLLoLLoL
LoLLoLLoLLoL
恥ずかしながら浅いところまでしか知りませんでした。そんな観点から考えると、成程と腑に落ちることが。
返信削除どの程度?
削除キリスト教系の入植者が開拓した町ってことくらいまで。
削除明治時代に「開進社」「晩成社」など幾多の会社組織が北海道開拓に取組み、その多くは厳しい環境の中で脱落せざるを得ませんでした。その中で、キリスト教精神を支えに苦難を乗り越え開拓に成功し、現在も700町歩(約694ヘクタール)の広大な社有地で営農している団体があります。それが兵庫県で生まれた「赤心社」です。
削除1880(明治13)年、兵庫県士族・鈴木清は、貧民の救済を目的に「赤心社」を設立。「貧乏人も自作農になって豊かに暮らそう」との設立趣意書を作成します。この趣旨に賛同した神戸のキリスト教関係者、貧乏士族が株主として参加。1882(明治15)年4月に第一次移民団54戸が、開拓使から許可を受けた日高地方の浦河郡西舎村(にしちゃむら)に入ります。しかし到着が遅れて種蒔きの時期を失した上に、農具・家具を積んだ帆船がしけで千島に流されるなどの不運が重なり、期待した成果を挙げることはできませんでした。
社長の鈴木は入植地を元浦河荻伏(おぎふせ)に変更し、翌1883年5月半ばには第二次移民団83人がこの地に到着し、開墾に着手します。この時の団長が沢茂吉。沢は摂津国(兵庫県)三田藩士で、三田教会で洗礼を受けています。沢は「赤心社」を指導し、1885(明治18)年には17戸、1886(明治19)年に6戸、1887(明治20)年に6戸と、次々と移民を受け入れていきます。
すべてが順調に推移したわけではなく、西南戦争以降のインフレで資金確保に苦戦し、農産物価格の暴落して経営困難に陥りました。沢は経営の多角化に舵を切り、馬や乳牛・肉牛の飼育・果樹栽培・養蚕・ハッカ栽培・乳製品の製造、さらには商事部門や物産販売取次所などの開設で、近代的農業経営方式を取り入れていきます。
他方で入植者の結束を高めるため「元浦河教会」「私立赤心学校」共済組織「永明会」を設立。沢は教会の中心的人物となり、北海道議会議員としても活動しました。浦河郡浦河町荻付町には「赤心社記念館」があり、沢を始めとした移民団の苦労の跡を偲ぶことができます。
新琴似屯田兵村が発足した1887年、兵庫士族が輪西(室蘭市)に16戸入植。これを皮切りに、兵庫県からは道内18兵村に合計126戸約500人が移住・入営しています。
色々な事がこのエントリーでスパッと繋がってなるほどなぁですよ。自分なんて何者でも無い雑種だけど、。
削除身分やら人種やら誰彼問わず
削除皆AI的な仮装世界ですわwww
雄武は
返信削除アイヌ語由来で
ない部分
あるんですね、、
>蜂須賀家 稲田家 関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった
返信削除熊本藩の八代城代も、対等とまではいかないにしろ、主従の関係ではなかったけど、維新後もうまくやってますな
というのも、途中から細川から養子が松井に入ったから
蜂須賀家も稲田家に藩主家から養子とらしておけば、こういうことにはw
そういう関係じゃ
削除なかったという事w
縄文からシュメールか
返信削除有難うございまする
若干まだ混乱だけどw
少しだけ
具体的な出自も明示された
(物理的に)完全に安全なのね
ヨカタ
歴史ガチ勢以外には
ほぼほぼ無知な話かも?
単一民族と近代特に戦後宣うけど
縄文山窩系への虐殺行為隠蔽目的
だったんだろうなと思ってしまう
最近は淡路島に
何かと出掛けているけれど
南端には未だ行けていないなー
蜂須賀さんは評判悪いですね 江戸時代からよろしくないと聞いて
返信削除ますが 庚午事変もエグイですね 北海道に都合よく追いやる政府も
政府ですが、、、
白峰に合祀してるところをみれば余程怖いのでしょうね
それにしても明治以降サクリファイスされてる人々大杉ですね
以前もw
削除そして
今もw
紋がアレ。
削除>蜂須賀さんは評判悪いですね 江戸時代からよろしくない
削除その前は良かったスカww
玉ねぎが繋ぐ縁w
返信削除沼島の港から、家の間を抜ける細い道を行くと、やがて島の中ほどの丘を越えて、島の東側の海岸に出る。ちょうどその海岸にあるのが上立神岩(かみたてがみいわ)である。巨大な岩石が崩落してできた荒磯の先の海中に、天を裂くような三角形の先端を見せながら屹立(きつりつ)する巨岩である。高さが15mあるという岩は、イザナギとイザナミがオノコロ島に降り立ち、巨大な柱の周囲をまわって婚姻をおこなったという、「天の御柱」だともいわれている。
返信削除https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/legend2/story14/journey10/
なぜ、日本、しかも淡路島 なんでしょうねww
返信削除天の浮橋に降り立つ好条件があったのか
タマタマだったのかwww
以下
https://kankouawaji.com/onokorojimajinja/
より抜粋
1983年に、おのころ島神社の漢字表記を、日本書記に表記される「磤馭慮島」から自ずと凝り固まる「自凝島」に変更しました。古事記では「淤能碁呂島」と表記されています。
おのころ島神社では、参拝順路として、拝殿、御神木、八百萬神社の順番が示されています。
石階段には、服部嵐雪さんの句碑「梅一輪 いちりんほどの あたたかさ」があります。なお、服部嵐雪さんは淡路島南あわじ市榎列の服部家が実家で、おのころ神社のある地元出身といわれています。
1956年に、芭門十哲の一人である服部嵐雪さんの250年祭記念に建立されました。
神話の息づく神社の境内では、1月にサザンカ、2月に梅(ウメ)、4月に桜(サクラ)、11月に紅葉(モミジ)を楽しめます。赤や白のサザンカは歴史ロマンの悠久の世界に誘います。
伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)の二神が創生した日本の国土全体を指すことから、おのころ島神社を含めた淡路島の三原平野の一帯が芦原国であると考えられています。
葦原国には鳥居と社があり、国常立尊(クニノトコタチ)が祀られています。
>なぜ、日本、しかも淡路島
削除内海に大きな島
水運で成り立つ地域だし
聖地と化しやすかった?
縄文海進の時の海岸線を考慮すると見えてくるものがあるかも。群馬の辺りは海に面していたのでそ?奈良も海に面していたのでそ?
削除ともに
削除上のURL
お読みでないねwww
日本で最初にできた島はどういう仮定過程になっているか、、?
警備員か
削除