12/23/2024

それ「カタカムナ文明」ちゃう、「カタカナ文献」と「カタカナ文字」や!LoL

ご近所2024年12月23日 1:18
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%8A%E6%96%87%E7%8C%AE
なんかつべでこれ関連が回ってきたんだけど、ちとググったらねずきちが持ち上げててワロタw
悪足掻き組の心の拠り所になっちゃってるのかな?



テラワロス!
お~い山田あ!座布団3枚持ってきてあげてえ!


カタカナ文献(カタカムナぶんけん)とは、神社「カタカムナ神社」のご神体とされた書物。独自の文字で綴られた古史古伝の一つで[注釈 1]古代日本の科学技術や哲学を記した書である。他の古史古伝と比較して「公的な学会に認められた写本」が現在のところは未確認であるという点と発見時期が1949年と極めて新しい点から、カタカムナというもの自体が楢崎皐月(ならさきこうげつ)によって伝承されたものとされる。公的な学術学会からは現段階においては認められておらず、偽書として扱われる。別名『カタカムナノウタヒ』、『カタカムナのウタヒ』。
成立
成立年代不明。原本の所在も不明。第二次世界大戦後、各地の電位測定調査をしていた楢崎皐月(ならさきこうげつ)が自らの手による写本を突然発表したことで、存在が世に知られるようになった。
この文書が世に出た経緯は『楢崎皐月のカタカムナ研究に見る原日本人像』[1] によれば次の通り。
1949年に楢崎が六甲山系金鳥山付近で64日間にわたる大地電気測定の研究を行っていた折、猟師の姿をした平十字(ひらとうじ)という人物から調査用に設置した機材について苦情を受けた。楢崎が苦情に応じて直ちに機器を取りはずすと平十字から感謝され、お礼代わりに、平十字の父親が宮司をしていたカタカムナという神社のご神体であった巻物の書写を許されたという。これが今に伝わるカタカムナ文献であるという。
原本成立の経緯が、楢崎が解読できたと主張する冒頭箇所に書かれているという説がある。森克明の著書によると、楢崎が解読した冒頭には「アシアトウアン ヒビキマノスベシウツシフミ」と記載されており[2]、アシアトウアンなる人物[注釈 2]が元となる文書を写したように読めると主張する[注釈 3]
とはいえ、文献をご神体として祀る「カタカムナ神社」は現在の「保久良(ほくら)神社」であるとする説が有力であるが現在のところ不明であり、ご神体の巻物も同じく所在不明ではある。
内容
カタカムナ文献の本文は、独自の図形文字が渦巻き状に並んだ、80首のウタヒ(歌)である。
楢崎が解読できた(もしくは解釈した)と主張するウタヒの内容は、歴史よりも科学面の叙述が多いことが特徴で、歌の中に「日本神話に登場する神々の名を、歌詞にして、"自然摂理"の意味を、歌意に織り込ん」でいるという[2]。楢崎の解釈によると、具体的には製鉄法、稲作農業、石器・木器製作、服織、医学、経済活動、哲学などについて記載されているという[3]。人や動植物を繁栄させるのに最適な土地「イヤシロチ」の見分け方や、土地の改良方法も記されていたという[4]
楢崎はカタカムナ文献の内容に基づく「直感物理学」を展開し、カタカムナ関連の著作として『「直感」一号』(著作時期不明)、『古事記の解読法』(1968年)を記している[5]
このような文化の存在を示す遺跡・遺構・文書などは、文字による伝承には懐疑的であったとされる縄文時代にあるとされるためか楢崎が書写したカタカムナ文献以外には存在していない[6] 。 また、森克明はカタカムナ文献が出現した経緯が不可解な上に、楢崎による解読が正しいかどうかの公的な検証もされていないと主張している[2]
形式
カタカムナ文献は、いずれも円と直線の組み合わせからなる幾何学的図形の文字で、縦書きではなく渦巻き状に綴られており[6] 、通称カタカムナ文字と呼ばれる。楢崎は『古事記』や『日本書紀』を参考に、5年かけてこの文字を解読したとしている[6][1]。本文であるそれぞれのウタヒは、配置されたカタカムナ文字を中央から外側に向かって渦巻き状に読む。
現在のところカタカムナ文字は、コンピュータ用の文字コード規格Unicodeに含まれていない。日本語の通常の「あいうえお……」のフォントをカタカムナ文字に置き換えたフォントは有志により作成されている[7]。([8])



 楢崎 皐月(ならさき さつき、或いは「ならさき こうげつ」、 1899年5月9日 - 1974年7月31日)は、日本の物理学者電気技術者、疑似歴史家。カタカナ文字という古代文字の文献を発見・解読したと主張し、「カタカムナ文明」と称する超古代文明の科学について論じた。一部で天才的な科学者と称賛されたが、学界からは評価されておらず、存在自体あまり知られていない[1]。その常識とかけ離れた広範な研究は、一部を除いてほとんど評価されておらず、彼の発想全体を誇大妄想と考える人も少なくない[1]。経営コンサルタントでオカルティストの船井幸雄が注目し、楢崎がカタカムナ文献の内容として説いた「ヤシロ」に度々言及したことで、現在でも一部で知られている[1]

楢崎に関する資料は限られており、経歴の情報は、楢崎と弟子たちのグループの同人誌、「相似象学会誌 相似象」に拠るところが大きい。
母方の祖父・楢崎寛直は旧長州藩士で、松下村塾の出身者だった[2]長野県令を辞任し、大審院判事を務めた後、北海道の開拓事業に参加した[2]。娘を友人の息子の丹野軍治に嫁がせた[2]。楢崎家のある山口県東荻で、1899年5月9日皐月が誕生[2]。北海道に戻ってから出生届を出したため、書類上は小樽出生となっている[2]北海道札幌市で育った。楢崎寛直に息子がいなかったことから、丹野軍治が後を継ぐことになり、丹野皐月も楢崎皐月となる[2]。兄と妹がいた[2]


ネタ元は淡路島からの北海道強制開拓民でしょ。

中学校卒業後、兄と同じ東北帝大への進学を目指して上京したが、受験時にトラブルで遅刻して失格となり、1917年もしくは1918年に日本電子工業の電気の専門学校に入学した[2]日本石油と契約を結び、20代で特殊絶縁油を開発し、事業化した[3]。兄と共に雷の研究を行っていたが、兄は実験で死去したという[3]。大日本炭油で亜炭を原料とする人造石油精製の研究を行い、これが軍に評価され、満州に渡った。満州にて日本軍の製鉄に関わる技術職に従事する。ここでの経験から、製鉄の出来不出来と、溶鉱炉のある場所の周囲の植物の状態に関係があることに気が付き、土地の環境(イヤシロチ等)に興味を持った。また、1944年に老子廟で蘆有三導師という人物と出会い、老子の思想と蘆有三の博識さ、神秘性に触れて感銘を受け、上古代の日本に「アシヤ族」という高度な文明を築いた民族がおり、「八鏡の文字」を使い、様々な技術を開発し、これが神農によって日本から中国に伝えられ、中国文明の元になったと教えられ、常識とかけ離れた話であったが、蘆有三を尊敬していた楢崎はこれを信じた[4]

終戦後、職を失った陸軍系の技術者たちを支援した星製薬社長の星一の援助で、日本のために密かに研究を行う「化成会」という科学者グループを結成した。星製薬内に「重畳波研究所」を設立し、様々な研究を行う。


金鳥山(きんちょうざん)は兵庫県神戸市東灘区本山町にある六甲山系の標高338mの山。
概要
金鳥山は、高橋川支流風呂ノ川の谷(権現谷)と天上川の谷(八幡谷)に挟まれた、風吹岩付近より続く尾根の先端付近にある山。明確な山頂標識等は存在せず、国土地理院による標高点338m付近一帯が山頂とされる[1]。この尾根上には、標高の高い側より本庄山(424.5m, 三等三角点)、金鳥山(338m, 標高点)、保久良山(185m, 標柱あり)[2]と連なっている。
金鳥山の山頂付近の登山道脇にはベンチが置かれた休憩所があり、神戸市東灘区や灘区、中央区方向の眺望が良い。
金鳥山から南へ延びる尾根上の標高200から220m付近では、弥生時代中期から後期高地性集落跡が見つかっており、金鳥山遺跡と呼ばれている[2][3]
山頂付近の植生は、アベマキコナラ群集と外国産樹種植林(ニセアカシア群落)の境界付近となっている[4][5]。地質は丹波層群砂岩頁岩ホルンフェルス)である[6]
周辺には偽史ではあるが、カタカムナ文献の伝説がある。


ニセアカシア


12/22/2024

外来種ニセアカシアはアカシア (金合歓、Acacia) そしてアーカーシャ及びアカシックレコードが本当は元祖縄文人@淡路島起源だという不都合な真実を隠蔽し歴史を改ざんするために持ち込まれた。LoL

https://jyado.blogspot.com/2024/12/acacia-lol.html

➡「ヤシロ


LoLLoLLoLLoLLoLLoLLoL
LoLLoLLoLLoLLoLLoLLoL
LoLLoLLoLLoL

13 件のコメント:



  1. カタカムナ文字 1949年
    https://x.gd/5dCzml

    ファインマン・ダイアグラム 1948年 1965年ノーベル物理学賞
    https://storytellphys.wordpress.com/wp-content/uploads/2024/04/feynman006.jpeg

    ペンローズ・ヒエログリフ 2020年ノーベル物理学賞
    https://www.chimaira.org/img/penrose-hieroglyph.gif

    どっか似てるといえば似てるがw

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  2. カタカムナってそういう事でしたか、、、教えて頂き有難う御座います☺️

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  3. 明石家さんまは?w

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  4. 大日本除虫菊にも迫る危機w

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  5. まだやっとんか波動系wwww
    宮古島もどっぷり汚染されてますなあ

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    1. 紳助もM-1にメッセージ参戦w

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  6. 一部貼り付けます。

    坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作ら幕末の志士44人を撮ったとされる集合写真が長野県内の資料館から12月中旬、ひっそりと撤去された。集合写真は研究者の間で「写っている人々は龍馬らではない」という評価が既に固まっているにもかかわらず、いまだに「幕末オールスターの集合写真」といった風説が流れ続けている。なぜ消えないのだろうか?

    【写真まとめ】似ている? フルベッキ写真と銅像の顔を見比べると…

     ◇きっかけは肖像画家の論文

     展示をやめたのは、長野県東御市の道の駅「雷電くるみの里」の中にある資料館「雷電展示館」。

     雷電は史上最強とうたわれた江戸時代の名力士で、今年11月に記者が訪れたときには、元大関・琴欧洲の手形や元小結・高見盛のサインとともに飾られていた。

     集合写真は、佐賀藩や明治新政府に雇われたオランダ生まれの教師フルベッキ(1830~98年)父子が中央に写っていることから通称「フルベッキ写真」と呼ばれている。

     風説が生まれるきっかけは、1974年と76年に肖像画家が雑誌に発表した論文だった。「龍馬や西郷、高杉、大久保利通、陸奥宗光らが写っている」と主張し、注目を浴びた。撮影時期は高杉と龍馬が1867(慶応3)年に相次いで亡くなっていることから、65年だとした。

     論文ではフルベッキ父子以外に写っている44人のうち二十数人の氏名を「断定または推定」しただけだったが、その後、世の中に流布したフルベッキ写真は44人全員の氏名が書き込まれ、額に入れて販売もされている。

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  7. 突然何でメッセで
    わざわざ持ち込まれたか
    意味不明だったけど命乞い?w

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  8. >兄は帝大、自分は、、、
    >兄と共に雷の研究を行っていたが、兄は実験で死去したという

    いっしょに雷の実験中、兄だけ感電死、ということか、、いや別に

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  9. >長州藩士 松下村塾 長野県令 大審院判事 北海道の開拓事業
    >満州 人造石油 製鉄 神農 星製薬 船井
    勢揃いですね いろいろ作りこみしてるのでしょうね
    >アシヤ族
    勝手に命名したのでしょうか 

    ロクなことしてませんね

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