11/29/2024
●遺跡のポイントは
- 川の中から、たくさんの杭を打ち込んで作られた堰が3つ並んで発掘されました。それらは水流の速さや方向、水量を変えるために違う役割を果たしたものでしょう。
- 堰1の南には大規模に掘られた用水路があり、何度も底ざらえしながら大量の水を下流域へ引いていた様子がうかがえます。
- 堰や用水路は、この地域で米作りが本格化した弥生時代前期(今から2300~2400年前)のもので、全国的にも最古級の資料です。
●つまり
岩屋遺跡では水稲耕作初期段階にあたる弥生時代前期に、すでに大規模で複雑な構造の井堰や用水路が作られていました。用水路の先には、一面に水田がひろがっていた景観が復元できます。今回発見された灌漑施設は、猪名川下流域の人々が、米作りや生活に必要な水を川の流れを見極めて巧みに引いて利用していた様子がわかる数少ない貴重な発見です。
中国
中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。日本
従来、紀元前5~4世紀頃に水田稲作から始まったとされていたが、現在は、縄文時代後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている[11]。
水田稲作の伝来経路としては、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされる[12]が、詳細は後述する。近年は、水田稲作伝来以前からの熱帯ジャポニカ種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。これも詳細は後述する。朝鮮半島
無文土器時代前期にあたる平壌市南京里遺跡で発見されたイネが最古であるが、陸稲であった可能性が高いとされる。水田稲作に関しては朝鮮半島南部では、3100年前の水田跡が慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡から、2500年前の水田跡が松菊里遺跡で見つかっている。結核との関連
古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている[13][14][15]。
2019年時点では、中国・朝鮮半島・日本列島から出土した人骨にある結核による脊椎カリエスの痕跡の年代と場所の関係から、結核と稲作文化は長江流域にある広富林遺跡(現在の上海市)の付近から日本に伝播した可能性が示唆されている[14][15]。
東南アジア・南アジア
東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった[16]。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる[17]。
東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある[15]。
中央アジア・西アジア
トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[18]。
賜りもの、
返信削除いえ、
お借りもの
ですなw
淡路島行った時に
返信削除食料自給率100%って看板見て
そんな所あるんだとビックリしました。
直売所寄ってみると
削除種類の豊富さで
すぐわかりますww
首都圏にはあまり出てこないけど
淡路島牛乳はメジャーww
淡路島に限らず
兵庫は農業県ww
面白いですよ~!
返信削除https://ameblo.jp/historian-of-itoigawa/entry-12307537625.html
1980年代には、私はまだ学生だったが、当時は、アジアにおける稲作の起源地が中国の西部からインド東部にかけての雲南・アッサムにあったという説(京都大学の渡部忠世氏)が非常に有力であった。この説に従えば、稲作はここから東アジア東部に広がり、さらに弥生時代に日本列島に渡ってきたということになる。
しかし、1990年代における稲作に関する様々な領域の科学的研究によって、東アジア稲作全般に関する研究の結果は急速に進展し、稲作起源地に関する説も様変わりした。稲作の起源地は、雲南・アッサムから長江(揚子江)の中下流域に移され、その開始時も今から数千年前のこととされた。
その詳細は、佐藤洋一郎氏をはじめとする多くの研究者の著作の中で説明されているので、ここでは繰り返さないが、世界で最も早く稲作が始まった中国・長江の中下流域では、すでに7000年ほど前(BC5000年頃)に稲作が行われていたことが分かっている。例えば長江の下流域では、浙江省の河姆渡遺跡と羅家角遺跡が7000年前の遺跡として知られており、中流域では湖南省西部の彭頭山遺跡(9000年前の籾圧痕のついた土器)と城頭山遺跡(6500年前の多量の炭化米)が知られている。また1万年以上前にさかのぼるコメを出土した遺跡も存在する。
*佐藤洋一郎「DNAから見たイネの道」『日本人 はるかな旅 4 イネ、知られざる1万年の旅』日本放送出版協会、2001年)。
しかし、長江流域で今から7000年以上も前に始まっていた稲作であるが、日本列島への移動はずっと後のことになる。通説的には日本列島では弥生時代に水田稲作が始まり、急速に普及したと考えられており、かつ弥生時代の開始は紀元前3世紀とされてきた。中国に遅れること7000年以上である。
ところが、最近では、イネに関する考古学研究やDNA研究の進展により、日本列島における稲作の開始はもっと早い時期に求められるようになってきている。とりわけ注目されるのは、炭素同位体を利用した年代測定により、紀元前10世紀までには、つまりこれまで縄文時代とされていた時期にイネ・コメが日本列島に存在していたことが知られるようになったことである。
ただし、縄文時代の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、多くが畑作系の熱帯ジャポニカであり、水田稲作によるものではない。しかも、火山灰土壌におおわれている日本では、リン酸が不足しており、作物栽培に不向きな酸性土壌のために、イネの畑作には不向きであったようである。
*藤原宏志『稲作の起源を探る』、岩波書店、1998年。
したがって水田稲作に限れば、日本列島に稲作が導入されたのは、早くても紀元前10世紀頃であり、水田稲作が本格化し、人口が急速に増加するのはやはり従来弥生時代の開始期とされてきた紀元前3~4世紀の頃と見てよいのかもしれない。
この当時の日本列島の自然と社会はどのような状態にあり、また日本の周囲の地域(朝鮮半島、中国)はどのような状態にあったのだろうか?
本ブログでも前に書いたように、縄文時代晩期の日本列島では、人口の大半(85パーセント以上)は東日本に集中しており、西日本はいわば人口の過疎地だった。小山修三氏の人口推計では、縄文晩期の人口が東日本の65,000人ほどだったのに対して、西日本では11,000人ほどにすぎなかったとされている。人口11,000人といえば、今日の過疎の一町一村の規模にすぎない。
こうした東高西低の人口配置は、植生・生態系と密接に関係しており、東日本が暖温帯落葉広葉樹林帯だったのに対して、西日本が照葉樹林帯であり、それぞれの生態系がもたらす食料の多少に対応するものであったと考えられる。
この照葉樹林帯は、東アジアにおける稲作起源地と見られる長江中下流域から朝鮮半島南部を通って西南日本に連なる同じ生態系をなしている。それは黄海や日本海のためにとぎれているとはいえ、より北方の冷帯冬期温暖気候帯、すなわち粟や稗、麦などの雑穀文化圏と対照的な地域に属している。
ここで大きい疑問が生じてくる。それはイネ・コメ、稲作の科学的研究や、人間のDNA解析などによって、今から3000年以降に中国江南地方から日本に人々が水田稲作をともなっって移動してきたことがほぼ100%確実なものと証明されるならば、それ以外の様々な事物にも、その痕跡が残されていないだろうかという素朴な疑問である。
(以下略)
チョッパリは縄文土人のころから米食ってたニダ
返信削除ウリたちは今になっても米食えないニダ ああ米食いたいニダ
「米は北朝鮮では特権層の主食である。特権層の子弟だった脱北者に聞くと、田植えや収穫時に強制的に農村に応援に行かされた時しかメイズは食べたことがなかったという。従って、配給を受けている下層の住民に対する米の配給は極めて少ない割合になる。」
http://www.sukuukai.jp/report/item_7068.html
いや、よそ様のことばかり言っておれん お米が高い
きのうの夕飯は、煮たジャガイモでござったw ま、お肉もついてたけど
価格50%あがったので、
削除食べる量を2/3にしたら
ヨロシwwwwwwwww
>水田稲作伝来以前からの熱帯ジャポニカ種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。これも詳細は後述する。
返信削除見つかってるのに見つかってないと強弁するオウム残党のWiki
wikiだから
削除書き換えちゃえばおkwwwwwwwwwwwwwwww
縄文人の中には、いったん大陸にいって戻ってきた出戻り組、ずっと日本にいた組、とあるのでは?
返信削除朝鮮半島の南部もそうだったでせうな。
削除いってたら
削除もっと発展
加速してた
でしょうなww
中国史
朝鮮半島史
参照wwwww
毎日が
返信削除神無月
状態ww