11/01/2024

花火もロケットもICBMミサイルも原爆も今はもう神からの「恵み」はゲットできない爆裂魔法。LoL



10/31/2024

中国のチンコロケット神舟十九、発射時に割礼の儀式アルか?!LoL

https://jyado.blogspot.com/2024/10/lol_489.html



北朝鮮がやたら無駄にミサイルを発射しまくってるのは飢餓で死にまくってるから。

中国と日本は言わずもがなですな。


打ち上げ(うちあげ)





日本における花火の最古の記録としては、室町時代公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』1447年5月5日文安4年3月21日)条に記されている。浄華院における法事の後に境内にて、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が確認されている。そこでは、竹で枠を作り、火で桔梗仙翁花水車などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたという。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えている。

この時代は足利義満の死後途絶えていた日明貿易足利義教によって再開されており、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。

少なくとも戦国時代には鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている[27]。まもなく日本でも花火が製造されるようになったとされているが、以後もキリスト教宣教師や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られる。

1582年4月14日天正10年3月22日)にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』)は、大友宗麟が花火を活用して聖週間の祭儀をキリシタンを増やすための盛大な公開イベントとしたものである。聖土曜日の夜から翌明け方までの復活徹夜祭では、三つの城楼から花火細工が出て来る仕掛けが、三千もの提燈(教会堂や日本の物語を象った夜高行燈)の行列に豪華さを加えた。さらに数々の花火が「中で実にさまざまな形となった」ので人々は皆立ち止まって花火見物をした。そして真夜中には教会堂も中庭広場も立錐の余地もない人込みとなった[29]

外国人による花火の技術を学び日本でも独自に花火が作られたと考えられるが、その最初はよくわかっていない。1585年に、現在の栃木県栃木市で、皆川山城守佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという説もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。

太田牛一著『信長公記』巻十四に見える1581年2月18日(天正9年正月15日)のところに「御爆竹の事」に見える「御爆竹」を花火の爆竹であるとし、安土城下で爆竹(花火の一種)の製作されたと考える説もあるが、これは竹を燃やして音を立てる小正月の催しの一つとして少なくとも鎌倉時代から行なわれているものであり、火薬を使用した花火であったかどうかは即断できない。

ただし、この頃には鉄砲に使用する需要から火薬の大量生産が行なわれるようになって、日本独自の花火の製作も行われていたことであろう。

戦国時代から江戸時代初期にかけて「花火見物」が行われたとする記録としては、伊達政宗が居城の米沢城で、1589年8月17日(天正17年7月7日)夜、「大唐人」による花火を見物したというもの(『貞山公治家記録』『伊達天正日記』など)、1613年8月に徳川家康駿府城で英国使節ジョン・セーリスと謁見した際、同行した明の商人から火の粉が筒から吹き出るような形状の花火を見せられたという記事(『駿府政事録』『宮中秘策』『武徳編年集成』)などがある(但し政宗の記事は元禄頃の編纂資料によるものであり、家康の記事と酷似するなど問題が指摘されている)[27]

江戸時代

江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方(現在の愛知県東部)は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。その名残か、現在においても三河とその東隣の遠州地方(現在の静岡県西部)周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積している。

1648年には幕府隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。1712年頃出版された絵入り百科事典和漢三才図会』(寺島良安著)には、鼠花火、狼煙花火[30]などが紹介されている。

花火禁止令が慶安元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも出され、江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。打ち上げ事故が起き、禁令が出されるということを繰り返したとされている。

2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。

鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(吉野郡、後に奈良県五條市)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中にを入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)[31]。その後、大型花火の研究を進め、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。

なお、隅田川川開きの花火の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。

1733年畿内を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて20発前後の花火が披露された[27]

しかし、このエピソードは、明治中期から昭和初期にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている[32]。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり[33]、1730年代に流行したというのは事実に反する[34]。詳細は「隅田川花火大会」を参照。

鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年暖簾分けをして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである[35]

このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった[27]。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された[注 4]。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる[独自研究?]。しかし1843年5月16日天保14年4月17日)、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500)ほどの町並みを焼くという騒動があった[37]。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら将軍徳川家慶東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった[37]

当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩紀州藩水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得て、見物人が大挙押しかけ、江戸藩邸近くの萬年橋欄干が折れるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。

日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 - 2002年)によれば、打揚花火は、1751年に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。

鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。

花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野県、愛知県などでは、江戸時代から花火が作られていた。特に、三河国岡崎地方(愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。2013年現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の日本国内での花火の主な産地は長野県、新潟県秋田県茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。


明治時代以降
ヨーロッパで18~19世紀に化学の発展によって新しい化合物が合成され、それらを原材料にした「西洋花火」が明治元年(1868年)に日本に初めて輸入された。[38]
明治時代になると、海外から塩素酸カリウムアルミニウムマグネシウム炭酸ストロンチウム硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで炭火色といわれる橙色の強弱のみで表現されていた花火に新たな色彩が加わったばかりか明るさも大きく変化した[27]。これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。
新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。
多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の祝賀行事で、皇居二重橋から打ち揚げたものである。
それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。
大正期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになった。また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。また青木儀作廣岡幸太郎などの名花火師が登場したのも大正期である[27]
このように順調に技術を発展させていった花火であるが、昭和に入り、日中戦争など戦火が拡大する世界情勢下で、停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していた。
第二次世界大戦敗戦後は1945年9月長野市諏訪神社で花火が揚げられるが、翌10月連合国軍総司令部(GHQ)により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ[27]、戦後初の花火大会として1946年8月10日、岐阜市長良川河畔で全国煙火大会(後に全国花火大会となる)、9月29日30日茨城県土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(後に土浦全国花火競技大会となる)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。
日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可。これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)。
敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、2013年時点では中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減している。多くの花火業者は、2013年時点でも地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。


隅田川花火大会(すみだがわはなびたいかい)は、東京都隅田川沿い(台東区浅草(右岸)・墨田区向島(左岸)周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会。毎年8月に開催される江戸川区花火大会とともに東京二大花火大会の一つに数えられる。

由来

隅田川花火大会は、江戸時代、隅田川での船遊びが許された納涼花火解禁期間の開始日に、花火師の鍵屋・玉屋が、自身の花火を宣伝する目的で大々的に花火を打ち上げたことに由来する[2]

創られた「伝承」

この大会の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。

隅田川花火大会は、大飢饉コレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年享保17年)、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。

この半ば定説化していた「伝承」は、明治中期から昭和初期(1890年代1930年代)にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている[3]。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822年文政5年)に西日本一帯で起きたのが最初であり[4]、1732年(享保17年)に流行したというのは事実に反する[5]

下に引用した清水晴風の文章は、この「伝承」が形成される途上の1907年(明治40年)に書かれたものである。江戸時代の文献[6]には一切登場しない「享保18年」や「死者供養の花火打ち上げ」などといった情報[7]が記載されている一方、大正時代に突如登場する「水神祭」というワード[8]は、まだ見られない。

両国の夏の納涼花火」 隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733年)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897年)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と虽とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田○○ち 男山○○○ むさしの○○ 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。— 清水晴風『東京名物百人一首』1907年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋[9]

萌芽(明治20年代)

時間をかけて少しずつ形作られた、この「伝承」の萌芽は、明治20年代に現れる[10]1891年(明治24年)の新聞記事では、多数の仕掛け花火の打ち上げが始まったのは「凡百六七十余年前」とあり[11]、これに基づけば、1731年(享保16年)頃以前に始まったことになる。「伝承」にあるような、1733年(享保18年)という具体的な年は、この記事にはなく、また、死者供養と災厄除去を祈願する話も一切なく、隅田川で販売する花火の売り出し広告として川開き花火を始めたと書かれている[12]

翌年以降も似たような記事が新聞に掲載されるが、始期についての記述はまちまちで、1892年(明治25年)の記事では「凡そ二百年前[13]1893年(明治26年)の記事では「百数十年前[14]1896年(明治29年)の記事では「明暦〔1655〜58年〕以前[15]と一定していなかった。このように明治20年代の段階では、始期について、享保年間を含む約100年の「誤差」があり、「享保18年」というピンポイントの「設定」はまだ誕生していなかったのである[16]

「享保18年」の特定(明治30年代)

「享保18年」という具体的な年が現れるのは、明治30年代になってからである。その嚆矢が1903年(明治36年)の新聞記事であり、そこには「享保十八年五月旧幕府の免許を得て始めて挙行せし」と記されている[17]。しかし、この記事には、「享保18年」に始まったことを裏付ける根拠は一切示されていない。それにもかかわらず、これ以降、「享保18年」という数字がその真偽を検証されることなく、独り歩きしていく。

ただし、すぐに享保18年説が確固たる地位を得たわけではない。1932年(昭和7年)の新聞記事では、「天和二年〔1682年〕川開が始まつてから二百五十年」とあり[18]、主催者がそれを記念して川開きを大々的に催すことにしたと書かれている。主催者が天和2年説を喧伝していることから、1932年(昭和7年)の段階では、まだ享保18年説は十分に定着していなかったことが分かる[8]

「飢饉」への言及(明治40年代)

明治40年代には、上で引用した清水晴風『東京名物百人一首』などのように、「飢饉」との関連性を指摘する記述が登場する。

しかし、「飢饉→死者→慰霊→花火」というストーリーはまだ一般化していなかった。例えば、1911年(明治44年)に出版された若月紫蘭『東京年中行事 下巻』には次のように書かれている。

享保十八年、八代将軍吉宗の時である。前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催されたのである。— 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)より抜粋

若月は、飢饉について述べてはいるが、それが川開き(花火打ち上げ)のきっかけになったという書き方はしていない。それどころか、川開きは「奢侈の風」の象徴のように描かれており、慰霊や悪病退散とは正反対のイメージである[19]

また、若月は、対象地域や死者数等を具体的に示して享保の大飢饉を説明している。これらの内容は『徳川実紀』と完全に一致しており、そこから引用したものと考えられる[19]。若月の文章において、「飢饉」は当時の世相を説明する一要因に過ぎず、「飢饉」と「川開き」との間に直接の結びつきは示されていない。しかし、この『徳川実紀』から引かれた詳細な飢饉状況の描写が、のちに「慰霊目的」説に取り込まれ、結果として「伝承」の強化・完成に寄与することとなった。

「水神祭」の登場(大正時代)

1923年(大正12年)、その年の川開きを報じる新聞記事[20]において、「水神祭」という語が初めて登場する[8]

享保時代水神の祭に旧五月廿八日の夜を涼みがてらの余興として鍵屋弥兵衛が一発ポーンと揚げ〔た。〕— 読売新聞 1923年(大正12年)より抜粋

この記事では、飢饉による死者の慰霊のために云々という「慰霊目的」説は登場せず、花火は水神祭の「余興」という位置づけになっている。大正時代になっても、まだ「伝承」は完成していなかったのである。

「伝承」の確定(昭和初期)

あやふやだった花火大会の起源に関する「伝承」が確定し、流布していく画期が、1934年(昭和9年)に訪れる。この年に刊行された公式プログラム『両国川開大花火番組』に「川開きと花火の沿革」という論考が掲載されたのである。

顧みますれば、今から二百余年前、享保十七年、八代将軍吉宗の時、前年の豊作に引かへて大飢饉が襲来し、米価頻りに騰貴して、山陽、西海、四国が尤も甚だしく、民の餓死するものが九十六万余人に達したといはれ、且つ江戸においてはコロリ病(現今のコレラ)が流行し、死者は路傍に打棄てられる有様であつたので、時の政府は、その慰霊且つ悪疫退散のため、両国川下に水神祭を催して死者の追善供養を行ひました。翌十八年、前年の水神祭、川施餓鬼に因んで、矢張り五月二十八日に川開きを行ひ、八月二十八日に至る三ケ月の間は、数限りもない屋形船、屋根船、伝馬、猪牙船などの納涼船が山谷、橋場、遠くは白鬚、水神のあたりから、一方深川辰巳花街から大川尻まで『吹けよ川風上れよ簾』とゆるゆると涼を追ふて明け易い夏の夜を、更くるまで水に親しみ、東都歳時記にも『今夜より花火をともす』とあるのを見ますから、五月二十八日の川開き以後、毎夜のやうに色々な趣向を凝らして大小の花火や仕掛花火を打あげたものであります。— 三宅狐軒「川開きと花火の沿革」より抜粋

三宅は、先に引用した若月紫蘭の『東京年中行事』の記述を下敷きにしつつ、

  • コレラの流行
  • 慰霊と悪疫退散という目的
  • 時の政府(江戸幕府)による実施
  • 水神祭と川施餓鬼

という4点を付け加えた。これまでばらばらだった断片がまとめあげられ、ここに「伝承」が完成したのである。

三宅は、日本料理に関する著書を何冊も出し、俳句も嗜む文化人であった。そのような人物が、主催者の公式プログラムに、享保の大飢饉の説得的な根拠を示して花火大会の起源を論じたため、これが「定説」として定着していく。木村荘八(画家、風俗史家)、朝倉治彦(江戸研究者)、『墨田区史』などがこれに追随し、流布されていったのである[5]

この言説は、「民を慈愛する名君、徳川吉宗」というイメージと、「死者の魂を鎮め、災厄を川に流す」という民俗的な死生観などが合わさって、「民俗学的によく出来た」話になっていたことから、受容が進んだと考えられる[21]

以上のように、隅田川花火大会の起源については、1891年(明治24年)から1934年(昭和9年)までの40年ほどの間に、花火業者の広告目的から慰霊と悪病退散のためへと趣旨がすり替わり、かつ、明暦以前開始説や天和2年開始説もあった中で、享保18年開始説が根拠もなく採用され、広まっていった。こうして、「伝承」という名の作り話が定着したのである[22]


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10 件のコメント:

  1. >また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった

    、、ひそひそ話、、、

    A:倉庫整理してたら、奥から、古い古い花火がでてきた 赤爆と書いてある
    B:どうするだ
    A:倉庫売り払う前に空っぽにするよう言われてるし、処分しないと
    B:処分って
    A:勝手に打ち上げ花火にできないし、廃棄するしかないだろ
    B:ここだけの、ひそひそ話だが、あの赤爆にはヒ素が入ってる

    >鶏冠石
    「鶏冠石(けいかんせき、realgar)は、ヒ素の硫化鉱物である。化学組成:As4S4、晶系:単斜晶系、比重:3.5、モース硬度:1.5-2。四硫化四ヒ素とも。
    名称はアラビア語のrahjal lghar に由来する。 中医学では雄黄(orpiment、As2S3)と混同されることがある。かつては花火の白色発光や発音剤(赤爆)に利用するため雄黄と共に採掘されていた。」

    で、混同されるかも、の「雄黄」だが、、

    (雄黄)
    中医学では解毒剤や抗炎症剤として利用されている

    なにしろ漢方薬がそのまんま毒なわけで、その昔は、えらい人の毒殺(ほとんどは発覚せずに)なんか、日常茶飯だったんでしょうな

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  2. 歴史は作られてます、の典型w

    fireworks
    ですなw

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  3. 医薬原料が品薄で
    日本に入って来ない現況同様に
    火薬も入って来なくなるって訳

    こうDEATHネ

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    1. 2024年1月31日
      お客様各位
      カヤク・ジャパン株式会社

      煙火関連製品の価格改定について

       拝啓 時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
       平素は格段のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。貴社におかれましては何かと情勢厳しき折、お願いの儀につきご迷惑をおかけし誠に恐縮ではございますが事情ご賢察の上、何卒ご了承のほどお願い申し上げます。
      敬具

      1)価格改定の理由
       弊社が販売しております煙火関連製品について、その主要原材料である硝石及び木炭等の原材料価格上昇に歯止めがかからない状況が続いております。また製造に使用する電力等の用役費の大幅値上げや人件費の高騰が重なり、経営へのさらなる圧迫要因となっております。
       この様な事態に対処すべく一層の経営努力を重ねているところではありますが、かかる急激なコストアップは弊社の合理化・効率化では吸収出来る余地が残されておりません。
       つきましては、今後も継続してお客様に安定して製品を提供させていただくため、本件コストアップの一部ご負担をお願いせざるを得ず、この度の価格改定をお願い申し上げる次第です。
       お客様各位におかれましては諸事情厳しき折、度々多大なご迷惑をおかけする事となり誠に申し訳ありませんが、何卒よろしくご理解賜ります様、重ねてお願い申し上げます。

      2)価格改定の対象品目
      黒色小粒火薬
      煙火用粉火薬
      猟用黒色火薬
      速火線
      ロングヒューズ
      親コード
      雷コード
      電気導火線

      3)値上げ内容:現行価格の25~35%アップ

      4)実施時期:2024年4月1日出荷分より

      以 上 

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  4. チンミサの打ち上げコストwwwww

    イランチックで当たらないから不良品処分ww

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  5. >日本は言わずもがな

    だというのに2026年から独身税なるものが始まるとか
    なんかなー減点法的な日本的な
    でも違う気がするんだよなー
    今の若い人はまじめな人はホント真面目
    金がないと結婚も子供も作らない
    そういう若い子が結婚して子供を作りたくなる世の中にするべきであって(実際手遅れ感満載だけど)
    子供がいないなら金とるよーみたいなのはねー
    ナンカアカン
    神頼みじゃなくてやることが物理的に満載の筈なのに
    上級国民さまの妄想で動かしてるとしか

    返信削除
    返信
    1. 独り身ならば
      荒い金遣いやら
      堅実な運用やら
      せんと
      国庫に納めろや
      税w

      削除
  6. 独身税(というか罰金)を提案したのはプラトンだが、あいつは生涯独身だった

    返信削除
  7. めぐみんが爆裂で吹っ飛ばしてるのはコウモリですかね

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  8. 頭の中でコンギョが鳴り響いてとまらないw

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