9/17/2024

ゼレちゃん率いるウクライナ風情をシメるのに150万人も必要ですか?LoL


9/11/2024

ウクライナが“無人機144機”でモスクワ中心部から60キロほど離れたラメンスコエを攻撃。LoL


それにしても弱い、弱すぎるぞロシア軍!

https://jyado.blogspot.com/2024/09/14460lol.html
ロシア軍総兵力150万人 大統領令、12月に増員計画完了
9/16(月) 21:41配信
 ロシアのプーチン大統領は16日、ロシア軍の総兵力を12月1日に18万人増員し、150万人にする大統領令に署名した。  2022年12月に国防省が示していた「総兵力150万人」計画が完了する。プーチン氏は昨年12月、段階的措置として、大統領令で17万人増員し、132万人にしていた。  昨年初め時点の115万人と比べ、約3割の増員。国防省は「特別軍事作戦(ウクライナ侵攻)と北大西洋条約機構(NATO)拡大に伴うロシアへの脅威増大」を理由に挙げていた。 

7/04/2024

北朝鮮もビックリ! ロシア政府、国内の非白人外国人旅行者や滞在者を拉致し強制入隊させてウクライナ前線へ派遣。LoL

https://jyado.blogspot.com/2024/07/lol_67.html

ロシア国内の旅行者や学生をも含む外国人♂の皆様逃げてええええええ!

LoLLoLLoLLoLLoLLoLLoL
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7 件のコメント:

  1. シベリア配属w

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  2. いや、シベリアには、兵隊は二、三人しか残っておらんそうだ
    中国よ、外満州を取り戻す絶好のチャンスだぞ、
    と某英国紙があおっておったぞ
    その地図では、樺太は外満州のエリア外だったけどね

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  3. 日本としては、中国の露西亜に対する愛国感情を上手にくすぐり、露西亜には逆に疑心暗鬼にさせてつい先制「防御」攻撃させ、中露がバトル始めた隙に、露西亜住民を中国によるジェノサイドから護ってあげる、といった口実で樺太と千島を占領し、アメリカ様がどうしても分け前をほしがるときは、いわゆる北方4島とウルップ島は日本、シムシル水道より北はアメリカ様ということで
    ポイントは、露西亜人や企業の土地所有権とか私的権利はそのまま日本法でも認めてやること
    これで露西亜人は、ああ、日本領になってすごく得をした、とだれも反対しなくなるw

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  4. それにしても、露西亜というのは、すごいネーミングとうか、意味するところは、「西」洋と、「亜」細亜の間にあって、かろうじて「露」命をつないでる、とうことであって、、、

    で、ひょとして、こんな簡単な解題を、いままで、誰も、公表してなかったのかねw

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    1. レファレンスデータベースより

      質問
      明治10年に、ロシア領事館の抗議により、ロシアの漢字表記を「魯西亜」から「露西亜」に変更したとウィキペディアに書かれているがそれを確認するものは何かないか。
      回答
      ウィキペディアに引かれる参考文献は渡辺雅司『明治日本とロシアの影(ユーラシア・ブックレット)』(東洋書店2003)だが所蔵なし。『国史大辞典』にも記述なし。当館蔵書では平野岑一『文字は踊る』(大阪毎日新聞社 1931 )の152~154ページに「『魯西亜』と『支那』」があり、それには「明治二十二、三年ごろまでは、当時の帝政ロシアを『魯西亜』と書いてゐた。わが公文書にも、その字を用ひてゐた。これに対して『魯』の字は、『おろかもの』の意味であるといふので、ロシア政府から、わが政府に抗議して來た。その後は、『魯』のかはりに、『露』の字をあてるやうになつた」とある。
       ただし、『日本経済新聞』2012.9.11. 6:30Web版に小林肇「ロシアの漢字略称「魯」が「露」に変わったワケ」があり、これによると「1855年の条約では「魯」の字が当てられたわけです。それが1875年の樺太千島交換条約の条文では「魯」に代わって「露」が使用され、以後「露」表記が主流になっていきます」・「幕末・明治期の歴史学者、重野安繹(しげの・やすつぐ)は1904年に行った講演で、1872年か1873年ごろにロシアから「魯と云うのは魯鈍の魯の字であって、字が悪いから露の字に変えろ」という照会があったと述べています(「歴史評論」457号の熊沢徹氏の論文による)」とあり、外交上の呼称変更は平野の記述より古くなるものと思われる。ただし外交文書以外で「露」が一般化するのは1880年代に入ってからで「中外物価新報(日本経済新聞の前身)」では「1878年3月23日付には「魯」が、1885年4月30日付では「露」がロシアを表す見出しとして確認でき」るという。なお明治10(1877)年の領事館による抗議云々については小林の記事には記載がない。
      小林氏が引いた熊沢徹論文とは「日魯から日露へ--ロシアの呼称」『歴史評論 言葉から歴史を考える<特集>』歴史科学協議会1988 p47~52のことだが、『歴史評論』は所蔵なし。
      ちなみに白川静『字統』には、魯の字は「金文には」「みな嘉善の意に用い」る。「金文の魯の字形からいえば、祖祭に魚を薦め、祝祷して魯寿を求めるのが、魯の字義であると思われる。〔論語、先進〕『参(曾子の名)や魯なり』という魯鈍の意は、朴魯よりの転義であろう」と述べられ、本来は「よろこび」「さいはい」「おほい」などの意味で、愚かの意味は転義であるとする。

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