9/15/2024

「ラジオ時代」の到来の象徴だった1982年(昭和57年)3月に老朽化のため解体された尖塔高約201メートルだった原町無線塔。LoL



燃えた車内から1人の遺体 福島、道の駅「南相馬」駐車場
2024年9月15日 7時44分
共同通信
 15日午前2時ごろ、福島県南相馬市原町区高見町2丁目の道の駅「南相馬」で、複数の利用者から「駐車場に止まっていた車から火が出ている」と110番があった。乗用車がほぼ全焼し、車内から1人の遺体が見つかった。車内にガソリンの携行缶が残されており、南相馬署が出火原因や遺体の身元を調べている。
 署によると、遺体は後部座席で見つかった。性別や年齢は不明。
 現場はJR原ノ町駅から東に約1キロの国道6号沿い。











1921年大正10年)7月に現在の福島県南相馬市原町区高見町二丁目(北緯37度38分8.58秒 東経140度58分55.73秒)に完成した原町無線塔は、底面直径17.7メートル、突端直径1.18メートル、尖塔高約201メートル、鉄筋コンクリート製の電波塔で、1928年12月に依佐美送信所の鉄塔(250メートル)が完成するまでアジアで最も高い建築物であった。
設計・施工については、1921年11月10日発行の『震災予防調査会報告 第97号(甲)』に収録されている「原ノ町無線電信塔振動ノ験測」(大森房吉著)に詳しいので以下に述べる。なお、1フィート=0.3048メートル、1インチ=0.0254メートル、1=0.30303メートルで換算した。逓信省所管のもと、東京帝国大学(現・東京大学)工学部の3人の教授たち(柴田・草間・永山)によって設計された。円錐形をした鉄筋コンクリート造の構造物で、寸法は高さ約201.168メートル(660フィート)、直径は根本部分で約17.6メートル(57フィート9インチ、高さとの比は11対1)、頂上部分で約1.37メートル(4フィート6インチ、根本部分の13分の1)である。内部は中空となっており、壁の厚さは根本部分で約0.83メートル(33インチ)、頂上部分で約0.15メートル(6インチ)である。開口部は根本部分の狭い出入口と、高さ約40.2メートル(132フィート)ごとに約0.61メートル(2フィート)角のが4つあるのみである。当地の地盤第三紀層のを流れる新田川の狭い沖積層で、表面から深さ約1.2メートル(4尺)が黒色土、その下約1.2メートル(4尺)が、さらにその下約0.6メートル(2尺)が粘土、その下約3メートル(10尺)が砂となっており、これらが水平地層を成していることから、巨大な構造物の建設に適していると判断された。施工は東洋コンプレッソルが担当。1919年(大正8年)5月23日に起工した。工法は高さ約1.37メートル(4フィート6インチ)ずつ井戸状にコンクリートを打設するというもので、1920年(大正9年)9月26日までの間、これを147回繰り返した。
当初は鉄塔になる予定だったが、第一次世界大戦の影響で鉄の値段が高騰したため、鉄筋コンクリート製に変更。 無線施設には201メートルの主柱の他に、60メートルの木製の副柱18本が主柱から400メートル離れた場所に設置され、傘型の空中線を構築していた。出力は450kW。1928年(昭和3年)には、木製の副柱に代わり、高さ200メートルの鉄製の副柱5本が主柱から500メートル離れた場所に設置され、出力も750kWに改善された。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によってアメリカに打電し、これにより震災のニュースが世界中に伝わった[1]関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。しかし場所を取らず高出力の短波時代の到来により終焉までのスピードは意外なまでに早かった。
1931年(昭和6年)に原町送信所は廃局。1960年(昭和35年)には放置されていた無線塔を活用しようとNHKラジオの電波中継局が設置されるが、活用されないまま1973年(昭和48年)頃から、原町無線塔のコンクリート壁の崩落のニュースが流れ、風化・劣化が進んで危険度が増し、保存か撤去かが非常に大きな問題になっていった。結局、1981年(昭和56年)6月から1982年(昭和57年)3月にかけて解体、撤去された。
憶・原町無線塔
原町無線塔の撤去後、当時の市民の感情として、在りし日の原町無線塔の勇姿を求める声が根強く、当時の原町市役所はその対応に迫られる状況となっていた。原町市役所および原町ライオンズクラブは市民の声を尊重し、各方面からの協力ならびに経済的支援を求め、同年10月に、縮尺10分の1スケールのミニチュア版、高さ約20メートルの憶・原町無線塔(通称:憶無線塔)を建設した。



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7 件のコメント:

  1. 長波w

    ラジオといえばそうだが
    早々に
    中波短波超短波へww

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  2. 「1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によってアメリカに打電し、これにより震災のニュースが世界中に伝わった。」

    打電、つまりツートントンという電信であり、音声をそのまま電波に乗せるラジオではなかった。

    「関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。」

    電信は、海底ケーブルが大昔から設置されてあり、原町のはラジオではなく単なる電信だったので、この文章はインチキである。

    「1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。」

    ラジオ時代の到来の象徴は、原町無線塔ではなく、千葉の検見川送信所である。 実際、
    「そして1930年(昭和5年)10月27日には、軍縮条約批准に際し日米英の3国首脳による記念放送で、日本で初めての国際放送として短波無線電話送信機による送信に成功し、「検見川」の名を世界に広めました。」

     国際ラジオ放送に最初に成功したのは検見川であり、ラジオ時代を象徴するのは検見川送信所である。

     さて、では電信としなら、すごく活躍したかというと、あのニイタカヤマノボレを1941年12月2日に潜水艦向けに海面下にも届く長長波で送信したのは、佐佐美送信所であった。

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    1. 海底ケーブル電信は
      ユーラシア大陸経由w

      ラジオを
      歴史的広義で捉えるか否かかもw

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  3. ま、地元自慢できるのがこれくらいしかない人たちが、いろいろ盛りたがるのは分からんわけでもないが、、、

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  4. 200メートル ガソリン自殺、、

    さて、どうでもいい話になるが、来年、お台場に、四捨五入すると200メートルになる噴水がでけるそうじゃ

    で、なんでこれが自殺と関係あるかというと、200メートルも吹き上げる水圧というのはすごいものがあるわけで、この噴水に飛び込めば、あっという間に50メートルの高さに体が飛んでいくわけで、しかも自殺なのか、単なる事故なのか、あとで確かめるのは不可能に近いわけで、そうすると遺族としては、噴水設置者の責任だ、賠償金よこせ、とごねれば、思いがけずゲットできるかもしれんわけで、、、  どうせ最後を華々しく、と考える輩がわらわらと押しかけてきて、来年は、大変だ

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  5. とある国のチン子ミサイルのような気が

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    1. そんなことおっしゃるから
      反応してぶっぱなしたじゃないですかwwwwwwwww

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