若宮八幡宮霊場第三十三番
社殿長宗我部元親が合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになり、拝殿は出蜻蛉式に立て直された。また、凱旋報告を行う土佐神社の拝殿を入蜻蛉式に改めた。日本では蜻蛉は勝ち虫とも言われ古来より縁起物とされてきたことによる。鳥居天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである。
鎌倉〜北鎌倉にかけての山もアレな感じになるのでしょうか。
東伏見田無もお稲荷さんに八幡さんww
若宮八幡宮
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社殿
削除長宗我部元親が合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになり、拝殿は出蜻蛉式に立て直された。また、凱旋報告を行う土佐神社の拝殿を入蜻蛉式に改めた。日本では蜻蛉は勝ち虫とも言われ古来より縁起物とされてきたことによる。
鳥居
天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである。
鎌倉〜北鎌倉にかけての山もアレな感じになるのでしょうか。
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