5/11/2024

白河以北一山百文







https://nasu.shokokai-tochigi.or.jp/asi_iouno/doc/map_browse.pdf




みちのくの玄関口「白河の関」は多くの歌人たちが憧れた地です。

奥州三古関のひとつに数えられる「白河関」。奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、当時は人や物資の往来を取りしまる機能を果たしていたと考えられています。やがて律令制の衰退とともにその機能を失ってからは、都の文化人たちの憧れの地となり、"歌枕(和歌の名所)″として知られるようになりました。この地を訪れた代表的な歌人・俳人は、能因や西行、松尾芭蕉など、みな時代を代表する文化人たちです。
また、関跡には、源義家や義経にまつわる伝説が残され、樹齢約800年の従二位の杉など数々の巨木もあり、歴史の深さを感じさせます。 

白河と松尾芭蕉

俳人・松尾芭蕉は、白河の関を越える旅に思いを馳せました。元禄2年(1689)5月下旬(今の暦で6月上旬)に白河の地にたどり着いた芭蕉は「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」と、みちのく路の第一歩を踏み出したことについて感動を込めて記しています。
また、芭蕉の供をした曽良の句に「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」とあり、この時期に白河で咲いていた卯の花を詠み込んだと考えられています。
それから約330年の時を経た今でも、可憐な卯の花が咲き誇ります。



https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001743.html






旧暦の4月の名称は、「卯の花(ウノハナ)」が咲く季節なので「卯月(ウヅキ)」と呼ばれるようになったという説があります。5月初旬が旧暦の4月朔日(旧暦で月の第一日)に当たるので、その日から6月1日頃までが卯月となります。昔は生活が自然と密接だったので、こうした文学的な呼び名が生まれたのかもしれません。枝先いっぱいに群がるように咲く純白のウノハナは、新緑の中でひときわ目立ちます。辺りに漂う花の匂いも、季節の風物詩です。ちなみに、豆腐のしぼりかす(おから)をウノハナと呼ぶのは、この白い小花の咲いている姿と似ているからです。

ウノハナの植物名は「ウツギ」ですが、通常はウノハナと呼ぶことが多いといえます。ウツギという名の由来は、「空木と言う意味で、幹の中が中空であるところからきたもの。ウノハナはウツギ花の略とされたものであるが、卯月に咲くという説もある。漢名は溲疏(そうじょ)と言うが正しい使い方ではない。」と牧野富太郎博士は述べています。
万葉仮名には「宇能花」「宇乃花」「宇能波奈」などが使われています。10世紀に編まれた『和名類聚抄』には「宇豆木(ウツギ)」とあるので、平安時代にはウツギの名があったことがわかりますが、和歌などではほとんどウノハナの名で詠まれています。7~8世紀に編まれた『万葉集』にも、ウツギの名はありませんが、ウノハナは24首も詠まれています。夏を告げる時鳥と共に詠まれている和歌が多く、ウノハナの背景によく合っています。

宇能花の 共にし鳴けば ほととぎす いやめずらしも 名告り(なのり)なくなえ

大伴家持

押しあうて 又卯の花の 咲きこぼれ

正岡子規

ウノハナの別名には、「雪見草」「水晶花」「弓木」「かきみ草」などがあり、花の咲く時期や咲く姿、使用目的が由来となっています。
学名はDeutzia crenataで、属名は命名者の植物学者ツンベルグのパトロンだった当時のアムステルダム市長の名前、種小名は葉の縁がのこぎり歯であることを示しています。

ウノハナは北海道南部から九州の山地に普通に見られるユキノシタ科(※新分類体系のクロンキスト体系ではアジサイ科に分類)の落葉低木。分枝が多く、5~6月に円錐花序を出し、白い五弁の鐘状の小花を円錐状につけ、花後は球果を結びます。樹幹は堅く、中は空洞です。垣根に適した高さ1~1.5mぐらいが多いですが、2mぐらいに成長するものもあります。
変種に、花が八重になった「八重空木」があります。他にも類似植物として、「丸葉空木」「姫空木」「梅花空木」などの種類があります。ユキノシタ科以外でも、幹が空洞になっている植物にスイカズラ科の「箱根空木」や「錦空木」、ドクウツギ科の「毒空木」などがあります。


薬用としては、木部の生薬名を「溲疏(そうじょ)」といい、煎じて利尿薬に利用しています。材質が堅いので、たんすや小箱の木釘に使われたり、樽の呑み口や笛にも利用されています。かつては幹の堅さを利用して、ヒノキの板にウツギを摩棒にして発火させ、火種を得ていました。
花言葉は、「古風」「風情」「秘密」です。

出典:牧幸男『植物楽趣』




白河関跡【しらかわのせきあと】

指定種別 国指定 史跡
指定年月日 昭和41年9月12日
所在地 白河市旗宿関ノ森ほか
所有者 白河神社・白河市ほか


旗宿集落の南に位置する標高410mほどの独立丘陵全体が、史跡指定地である。栃木県境まで約3キロメートルの位置にあるこの地は、古くより関の森と呼ばれ、丘陵頂上部には白河神社(明治2年(1869)に改称)が存在している。

白河関の名は、文献では延暦18年(799)12月10日の太政官符(「河海抄(かかいしょう)」)に「白河・菊多剗守(きくたせきもり)六十人」と記されており、少なくとも8世紀末には存在していたものと考えられる。また、承和2年(835)12月3日の太政官符(「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」)に、「白河・菊多両剗」と見え、俘囚(ふしゅう)(律令国家に服属した蝦夷(えみし))の出入りと商人による官納物の買収を防ぐため、通行取締を長門国並みに行うよう命じており、白河関が人々や物資の出入りを監視する役割を担っていたことをうかがい知ることができる。

関の存続年代については、発掘調査の成果や文献資料から奈良~平安時代(8~9世紀頃)と考えられるが、10世紀の律令国家の衰退とともに、官関の機能は失われ場所も忘れられていったと推定されている。

機能の衰退・廃関前後に、能因(のういん)の和歌「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(「後拾遺集」)などが詠まれ、以降白河関は都人の憧憬の地へと変化し、多くの歌人・俳人によって「歌枕」として文学の世界にその名が伝えられた。

江戸時代に入り、白河藩主松平定信は場所が不明となっていた白河関跡の調査を行い、絵画・記録や伝承などから考証を行い、寛政12年(1800)に現在地を白河関跡と断定し、「古関蹟碑」を建立した。

昭和34年(1959)から5箇年にわたって発掘調査が実施された。その結果、空堀、土塁、柵列、門跡、竪穴住居跡、鍛冶工房跡、掘立柱建物跡などが確認され、縄文時代および奈良・平安時代、中世にわたる複合遺跡の存在が明らかとなった。

この調査により確認された遺構・遺物、遺跡周辺の地理的特徴、文献や絵画資料等の検討を総合して、現在地が白河関跡の条件にかなう点が多いことから、昭和41年(1966)に国史跡として指定された。
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001386.html



白河の関(しらかわのせき)は、古代日本における関所の1つ。奈良時代から平安時代にかけて、から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として歴史上名高く、「みちのく(奥州。現代の東北地方)の玄関口」とされてきた[1][2]

所在地は福島県白河市旗宿に比定されており、白川神社が祀られ、国の史跡に指定されている。当地は下野国(現:栃木県)と陸奥国(現:福島県など)との国境付近[注釈 1]であり、現代でも関東地方と東北地方との境界となっている[1]

白河の関より北に位置する東北地方(または北海道地方も)を「白河以北」「河北」と称することがある[1]

鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに『奥州三関』の1つに数えられる。

歴史

設置

設置時期は明らかでない。『類聚三代格承和2年(835年)太政官符では、「白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年」と見えることから、9世紀前半の835年当時には「5世紀前半に設置された」と認識されていた[3]

当初、白河関はヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立した前線基地であったが、後にヤマトの勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所という役割が残ったという[1]

機能

六国史における白河の初出は718年養老2年)5月2日 (旧暦)陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設[注釈 2]を許可、そして神護景雲3年(769年3月13日には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。

また宝亀11年(780年12月22日には陸奥鎮守府副将軍百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。

承和2年(835年12月3日の太政官符(『類聚三代格』)では、俘囚の出入りや不正商品の通過の検問を長門国関(赤間関)と同様に取り締まることが許されている[4]

文学的概念へ

平安時代以降、律令制度の衰退とともにヤマト政権の軍事的要衝としての白河関の機能は解消していったと考えられている[1]。白河関は遠い「みちのく」の象徴として和歌歌枕に起用され、文学的感傷をもたらす存在となった[1]。和歌での初出例は、平安中期の平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺和歌集」別)とされる[1]

平安末期または鎌倉時代始期の1189年文治5年)、源頼朝奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した際に梶原景季に歌を詠むよう命じると、景季は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ[1]

江戸時代前期の1689年元禄2年)、俳人松尾芭蕉は、みちのくの歌枕や古跡を巡る「おくのほそ道」の紀行で白河の関を訪れ「心許なき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記した[1]

廃止後

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年寛政12年)、白河藩松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

戊辰戦争以後、明治時代には白河関より北にある東北地方内戦に敗れた「賊地」として蔑視されており、薩長土肥などの官軍側からは「白河以北一山百文(東北地方には山1つにつき100の価値しかない)」という蔑称も用いられた[1][5]

1897年(明治30年)、宮城県実業家である一力健治郎は「白河以北」から「河北」の字を取り、地方新聞紙河北新報』を創刊して東北軽視への反発と東北の復興を誓った[1][5]

また、1918年大正7年)に平民として初めて内閣総理大臣に就任した原敬岩手県盛岡市出身)は自身の俳号を『一山』と称した。この意味について、後世の評論家佐高信山形県酒田市出身)は「いわゆる官軍の輩が白河以北一山百文と嘲笑したのに抵抗してである。」と論じた[5]

現代

1960年代発掘調査の結果、土塁空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。

2022年令和4年)、1915年から続く高校野球甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)において初めて東北地方の学校が優勝したことについて、「優勝旗がついに白河の関を越えた」と表現され、東北で歓喜された(詳細は後述[1]



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5 件のコメント:

  1. 高校野球みたいな古いモノがトーホグに廃棄されたわけですね…

    いつまであの野球大会やるんでしょうね…

    野球賭博のためのプレイヤー育成が目的なんでしょうかね…

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  2. 岐阜の白川郷はどうなるねん
    ぁ北白川っすか におかげさまですっきりなれましたんで
    とうほぐのもそういうことか でいられますが
    記事読んだ感想は オカラだなぁ に尽きてしまうww

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  3. 河北新報
    いまだ宮城県のみw

    もうちと北いけば
    花巻@17

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  4. > 白河以北一山百文

    白川でなく白河だからってか
    宮城県に事業拡大で引越した
    旧友訪ねて宮城に一度行った以外
    東北は縁のないままに終わりそうw

    TOHOKU's All Hope Is Gone

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    1. これはやはりちと失礼か
      サントリー熊襲を思い出した

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