5/04/2024
普化尺八
16世紀に日本で普化尺八が開発され現在まで命脈を保っている。竹の根元部分から作られており一節切よりも長くて太くて、平均管長54.5cm、直径4cm、指孔が1つ少ない5つである(前4、後1)。一節切より音量が大きく、音域も広く優れている[2][3][4]。江戸時代には、尺八は法器(楽器というよりも法具の意味合い)として普化宗に属する虚無僧のみが演奏するものとされ、それを幕府の法度によって保障されていた。建前上は一般の者は吹いてはならなかったが、実際には尺八をたしなむ者はいた。明治時代以降には、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏するようになった。伝承としては、9世紀ごろに唐の禅僧普化の弟子張伯が虚鐸(きょたく、こたく)として発明し、1254年に心地覚心が日本に持ち帰り、1400年ごろに虚無(楠木正勝)が広めたというものがあるが、検証された史実ではない。
普化宗(ふけしゅう)は、日本仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い[1]、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。歴史
1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
江戸時代には虚無僧の集団による特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装が決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
1950年、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された。普化宗諸流
普化宗諸流には16派があると伝えられている。しかし、諸説がある。金先・奇竹・梅土・不智・養沢・芝隣・義文・隠巴・宗和・錐南・短尺・野木・児派・括総・小菊・根笹
金先・奇竹・梅土・不智・養沢・芝隣・義文・隠巴・宗和・錐南・短尺・野木・児派・火化・夏漂・司祖
虚無僧(こむそう)とは、禅宗の一派である普化宗の僧のこと。
解説
普化宗は唐の普化を祖とし、日本には臨済宗の僧心地覚心が南宋に渡り、普化の法系の張参に竹管吹簫の奥義を受け、張参の弟子「宝伏」ら4人の居士を伴い、建長6年(1254年)に帰国し紀伊由良の興国寺に普化庵を設けて住まわせたことに始まる。古くは、「こもそう(薦僧)」ということが多く、もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという[1]。
虚無僧は「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧[1]とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した[1]。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。
旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱(げばこ)は、明治末頃から見受けられるようになったもので、虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたものである(因みに「明暗」に宗教的な意味合いはなく、「私は明暗寺(みょうあんじ)の所属である」という程度の意味である)。江戸時代には、皇室の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などと書かれてはいなかった。江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、偽虚無僧も皇室の裏紋を用いていたようである。
慶長19年(1614年)に成立したという『慶長掟書』(けいちょうじょうしょ)には「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があるが、原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺、鈴法寺にも存在しないため、偽書ではないかと疑問視されている。罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。明治4年(1871年)、明治政府は幕府との関係が深い普化宗を廃止する太政官布告を出し、虚無僧は僧侶の資格を失い、民籍に編入されたが、明治21年(1888年)に京都東福寺の塔頭の一つ善慧院を明暗寺として明暗教会が設立されて虚無僧行脚が復活した。
自宅に訪れた虚無僧への喜捨を断るときには「手の内ご無用」と言って断る[2]。時代劇における虚無僧
江戸時代らしさを演出する市中・街道の通行人のほか、深編笠で素顔が見えない点を生かして、暗殺者や隠密、武士が本当の身分を隠して行動する時の姿として登場する。尺八を鳴らしながら近づいてきた虚無僧の一団が、すれ違った瞬間に襲い掛かるといった場面が典型的である。
明暗寺(みょうあんじ)は、京都市東山区にある普化正宗総本山の寺院。山号は虚霊山。本尊は虚竹禅師像。尺八根本道場。時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を着けており、一見宗教的な意味を持っているように見えるが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味である。
歴史
建武2年(1335年)、天外明普が虚竹了円を開山と仰ぎ、京都三条白川に創建した。明治4年(1871年)に廃仏毀釈により廃宗廃寺となったが、寺が所蔵していた虚竹了円禅師像などが東福寺の塔頭である善慧院(ぜんねいん)に預けられ、明治23年(1890年)、「明暗教会」として復興。さらに昭和25年(1950年)に善慧院に間借りする形で「宗教法人普化正宗明暗寺」として再興された。善慧院には和尚(善慧院住職)と明暗尺八の法系を継ぐ尺八看首がいる。
白河(しらかわ、白川)は、かつて京都洛外、山城国愛宕郡に属していた白川流域を指す名称。本来は白川の南側地域のみを指していたが、後に北側地域も含むようになり南側を「南白河/下白河」北側を「北白河」・と称した(『山城名勝志』)。現在では京都市左京区に属するが、南白河は岡崎・北白河は北白川に分割されている。
領域
白河は、白川流域のうち、現在の左京区岡崎を中心として、北は北白川・東は東山・南は岡崎もしくは粟田口・西は鴨川に囲まれた地域とされている[1] 。白川が形成した扇状地には縄文時代の住居跡が遺されるなど、有史以前から人間が居住していたと考えられている。
歴史
平安遷都直後の白河は鳥辺野などとともに葬送地であった。また、粟田口は逢坂関への入口であり、平安京から近江国を経て東国に至る道の起点として重要視された。また、白川上流の東山を越える山中越もこれを補完する経路として重要視された。
ところが、藤原良房が白河に別業(別荘)である白河殿を造営して以後、別業・寺院の建立が相次いだ。藤原道長は白河殿でしばしば観桜の宴(花見)などの四季の行事を行い、庶流にあたる藤原済時や藤原公任も白河に別業を設けたとされている。白河殿は藤原師実の代に時の白河天皇に献上される。白河天皇により、師実実兄の覚円を別当とした法勝寺が造営された。その後、歴代天皇・皇后によって建てられた5つの寺院とともに「六勝寺」と呼ばれた。在位の天皇・女院の御願寺は全て白河に建立されていたのも特徴的である[2]。また、白河天皇は退位後の寛治4年(1090年)頃に旧の覚円の僧房を御所(白河泉殿)とし、続いて永久3年(1115年)に白河泉殿を改築して白河南殿を造営、更に元永元年(1118年)にはその隣接地に白河北殿を新造して2つの御所を行き来しながら院政を行った。白河が事実上の政治の中心となったため、本来は平安京の外であった白河が「京白河」と称された。だが、治承・寿永の乱(源平合戦)で交通の要所であった白河の地は荒廃し、窮民によって御所や寺院が荒らされていく様子が『玉葉』などに記されている。
鎌倉時代に入ると、白河の中心部は「岡崎」と称されるようになり、後鳥羽上皇が承元2年(1208年)に白河に御所を造営した際に「岡崎御所」と称されて(『百錬抄』)以後、岡崎という呼称も用いられるようになる。この時代には岡崎(白河)の住宅地化が進み、元来白河に含まれていなかった白川の北側もその地域的範疇に含めるようになる。また南禅寺も創建された。南北朝時代の法勝寺の火災も近くの民家火災によるとされている(『太平記』)。
室町時代には南白河においては、「岡崎」の呼称が定着し、「白河」という地名は白川の北側の「北白川」を指すようになっていく。だが、応仁の乱では岡崎が戦場となり、北白川も目前の東山に北白川城が築かれて度々攻防戦が行われるなど(北白川の戦い)、戦国時代の影響を確実に受けている。その一方で、北白川では水車による精米作業や「白川女」による花の行商などの活動で知られるようになる。
江戸時代には、北白川のみをもって「白川村」を構成し、明治以後も愛宕郡白川村に引き継がれていく。一方、岡崎は早くも明治21年(1888年)に京都市上京区(当時)に編入されて京都市の一部として市制確立を迎えている。明治29年(1896年)には平安神宮が創建されるなど、京都市中心部との一体化が進んだ。明治30年(1897年)に白川村内に京都帝国大学理学部が設置されると、北白川もまた学生街としての要素を帯び始めていく。大正7年(1918年)に白川村は京都市上京区に編入された。昭和4年(1929年)の京都市の区の再編に伴い、岡崎、北白川は左京区に属するようになった。
白河夜船
京都に旅行へ行ったと嘘をつく人が、この白河(白川)の地について聞かれ川のことだと思い、夜に船で通ったのでよく知らないと答え、嘘がばれたという逸話から、熟睡して前後を知らないことを白河夜船(しらかわよぶね・しらかわよふね、白川夜船とも)という。かつては、見たことがないものをさも見たことがあるかのように知ったかぶって言うことの意味にも用いられた。川柳「白河を夜舟で渡る高いびき」に由来する。
この故事を題名にして、吉本ばななが小説『白河夜船』(1989年)を発表している。2015年には映画が制作された。
白川石(しらかわいし)は、白川の上流域である京都府京都市左京区北白川付近に分布する黒雲母花崗岩。白色の中粒で緻密な石材で、比叡山などは白川石の岩山である。京都市付近の近世までの建造物のほとんどに使われ、灯籠、手水鉢、墓石などにも広く利用された。昭和初期に石切場が閉山され、現在は採石されていない。
花崗岩そのものである白川石は、白川の上流域である京都・北白川の特産品であり、その品質の評価も高かったとされ、京都の石といえば白川石ともいわれ、鎌倉時代には三大名石の一つにも数えられた[1]。『都名所図解』にも「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出し…」との記述が見られ、『東北歴覧之記』では「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」とされている[2]。白川灯籠や手水鉢(ちょうずばち)などの加工品も名物であった。大正時代以降は、石造の衰退、採石容易な花崗岩の枯渇や京都市の条例による切り出しの禁止という要因により、北白川での石の切り出しは次第に行われなくなり、現在は主に瀬戸内産の花崗岩を使用している。しかし、最盛期には200人以上を数えた石工[3]はその後もその技術を生かし、京都府庁や京都市役所の建築などにも携わったとされているほか、その末裔は京都市内で石材商を営んでおり、京都市内の石屋の7 - 8割は北白川出身であるともいわれ[4]、出身者は他府県にも移り住み、技を受け継いでいるという[5]。また、北白川愛郷会の策定した「北白川史跡と自然の道」の経路には石切場跡も組み込まれており、現在も見学が可能である。なお、石屋はその多くは旧街道(志賀越道)沿いに分布していた[6][7]。
花崗岩[注釈 1](かこうがん、英語: granite)とは、火成岩の1種で、ガラス質は含まないが流紋岩に対応する成分の深成岩である。
なお、石材として「花崗岩」と呼んだ場合には、必ずしも学術的な花崗岩とは一致しない。また、石材の場合は御影石(みかげいし)とも呼ばれるが、やはり「御影」と付いても、学術的な意味での花崗岩ではない岩石も含まれる。
白川砂
白川の上流に多く見られる花崗岩の白川石が風化した白く美しい砂利で、白川の川砂はその白さの際だつ白川砂として京都・北白川の特産品となっており、各地の神社仏閣、京都御所、天皇陵などに古くから利用されてきた。ある時期より以降は、川砂を採取するのではなく、山を切り崩しての採取となっている[8]。
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虚無 影 w
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