歌手・俳優の佐川満男さん死去 84歳 胆のう炎 3月から入院し容体急変 出演映画の公開初日待ち発表
4/20(土) 16:19配信NHK連続テレビ小説「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」などに出演した、歌手で俳優の佐川満男さんが、12日に胆のう炎のため84歳で死去していたことが20日、分かった。所属事務所がデイリースポーツの取材に対して認めた。葬儀は近親者で営んだという。 事務所によると、佐川さんは昨年、現在公開中の映画「あまろっく」の撮影中にも体調不良を訴えており、今年3月から入院。容体が急変し、12日に死去した。映画は19日に公開初日を迎えたが、影響を考えて共演者にも訃報は伝えられず、初日終了を待ってこの日の発表となったという。 佐川さんは神戸市出身で、1960年に「佐川ミツオ」名義でシングル「二人の並木径」を発売し歌手デビュー。68年には本名の佐川満男名義で発売した「今は幸せかい」が大ヒットを記録し、同曲などでNHK紅白歌合戦に4回出場した。 俳優としても渋い演技で存在感を示し、NHK連続テレビ小説には94年の「ぴあの」を皮切りに「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」など10作品に出演した。私生活では71年に歌手・伊東ゆかりと結婚し、一女(歌手・宙美)をもうけたが。75年に離婚。2003年には胃がんの摘出手術を行い、18年にも脊柱管狭窄症の手術を行うなど、病に悩まされていた。https://news.yahoo.co.jp/articles/2879ca248e4435bca0649788c453f5c28f428f03
映画『あまろっく』公式サイト
Happinet Phantom Studios
https://happinet-phantom.com › amalock
2024年4月公開!「人生に起こることは何でも楽しまな!」関西出身の豪華キャストで贈る、笑って泣いてロックに生きるご実家ムービー.
あまろっく : 作品情報
映画.com
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2024年4月17日水曜日
贖罪の時間だゾ☆ 今回、十字架にかかるのは神の子ではなく数十億人の地球のTOC認定済侵略的宇宙知的生命体の諸君、君たちだ!
2024年4月17日水曜日
アニメ『黒執事II』にてオープニングテーマを担当されたthe GazettEのベース REITA様のご逝去
https://jyado.blogspot.com/2024/04/iithe-gazette-reita.html2022年6月22日水曜日
天才と狂気は神一重。神と悪魔は紙一重なんですよ。https://jyado.blogspot.com/2024/04/summer-highland-falls.html
川崎悟司@satoshikawasaki
佐川 満男(さがわ みつお、1939年〈昭和14年〉11月9日 - 2024年〈令和6年〉4月12日)は、日本の歌手・俳優・タレント。兵庫県神戸市出身。血液型はO型。ライターズカンパニー田畑冨久子事務所、ミュージックオフィス合田に所属。
貿易商を営む家の4人きょうだいの末っ子として、神戸市垂水区塩屋で出生[1]。伯父(姉の夫)は栗田工業社長の佐川明で、甥(姉の子)に佐川一政がいる[2][3]。ちなみに、実家の界隈は外国人の別荘地で、実家の洋館は建築から80年以上経ってなお現存する[1]。
神戸市立塩屋小学校・神戸市立鷹取中学校を経て、神戸市立須磨高等学校を1年で中退した後に、英語によるカントリー・ミュージックの歌詞やギターによる演奏法を独学で身に付けた[1]。やがて、神戸市の須磨界隈で活動していたロカビリーバンドにボーカルで参加すると、「白馬車」(神戸・新開地のジャズ喫茶)と「銀馬車」(当時有名だった大阪・難波のジャズ喫茶)のオーディションに合格。「銀馬車」でのオーディション合格翌日から、「クレイジー・バブルス」というバンドで内田裕也とツインボーカルを務めたところ、バンドは大きな人気を博した。
1930年(昭和5年)、神戸に居住しカメロン商会を経営していたイギリス人貿易商、アーネスト・ウイリアムス・ジェームス(英語: Ernest William James[1])が、当地に自邸を含めてイギリス人のための住宅地を約60棟以上ほど開発した。やがてジェームスの名を取り、この地を「ジェームス山」と称するようになった。
ジェームスの没後、旧邸とイギリス人住宅地を井植歳男(三洋電機創業者)が所有したことにより、近郊住宅地としてのジェームス山が誕生した。青山台一丁目には、井植を顕彰する井植記念館[2]が建つ。また塩屋の異人館は1989年の映画『花の降る午後』の撮影場所にもなった。
ジェームス山開発を行う塩屋土地株式会社[3]は、井植家の資産管理会社[4][5]でもあり、アイジー興産(ジェームス山自動車学院)、淡路フェリーボート(洲本ゴルフ倶楽部)、ユーアールエー、ホテルアナガとともにグループを構成する。
釘煮(くぎに)は日本の瀬戸内海沿岸(播磨、摂津、淡路)で古くから作られている郷土料理[2]。イカナゴやその稚魚コウナゴ(小女子)、シンコ(新子)を醤油、砂糖、ショウガなどで甘辛く煮た佃煮の一種である[2]。
イカナゴ(玉筋魚、鮊子、䱊 Ammodytes japonicus)は、スズキ目・ワニギス亜目・イカナゴ科に属する魚類の総称である。イワシなどと並んで、沿岸における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚種である。かつての学名はAmmodytes personatus であったが、2015年の研究で A. personatus は日本には分布しないことが分かり、イカナゴの学名はシノニムであるとされていた Ammodytes japonicus となった[1]。
イカナゴには様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ、コオナゴ(小女子)」[2][3]、西日本で「シンコ(新子)」と呼ばれる。毎日新聞ではイカナゴについて取り扱った記事で、東京本社版は「コウナゴ」、大阪本社版は「コウナゴ(イカナゴ)」「イカナゴ」と表記した例がある[4]。
また、成長した個体は北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、「カナギ(金釘)」などと呼ばれる。
New Latin, from Greek ammodytēs, a snake, literally, sand burrower, from amm- + dytēs diver, from dyein to enter, get into, sink.
personatus=person@us
Michael
佐川 一政(さがわ いっせい、1949年4月26日 - 2022年11月24日)は、日本の作家。パリ人肉事件の犯人として知られる。
兵庫県神戸市生まれ。聖ミカエル学園から鎌倉市立御成小学校を経て鎌倉市立御成中学校卒業[1]、神奈川県立鎌倉高等学校を経て和光大学人文学部文学科卒業、関西学院大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了、パリ第3大学大学院比較文学専攻修士課程修了後、再びパリへ留学した[2][3]。1981年(昭和56年)の時点では身長152cm[注 1]、体重35kg[2]。
父方祖父は朝日新聞論説委員であり、父は伊藤忠商事からの出向により栗田工業社長を務めた佐川明[2]。いくつかの会社を立て直し「再建の達人」と呼ばれた[4]。母親は神戸の裕福な貿易商(佐川商店代表:佐川与一)の娘だが(佐川は母方の姓)、祖父母(母の両親)ともに愛人がおり、祖母には婚外子もあるような複雑な家庭で母親は育った[5][6][7]。母方の叔父に歌手・俳優の佐川満男がいる[8][9]。
1歳違いの実弟の佐川純は慶應義塾志木高等学校、慶應義塾大学文学部、専門学校東京デザイナー学院卒業後入社した大手広告代理店を50歳で退職し、油彩画家に転身、2017年には兄の一政とともに仏米合作のドキュメンタリー映画に出演した(#出演)[2][10]。
生い立ち
生まれた時は父親の手のひらに乗るほどの未熟児だった。出生1年後には腸炎を患い、カリウムとカルシウムの静脈注射で命を長らえるような状態であり、両親は果たして何歳まで生きられるかと心配したが、虚弱体質だったものの順調に成長していった。
内向的な性格ということもあり芸術好きの少年として育ち、文学では『嵐が丘』『戦争と平和』などのほか、シェイクスピアに興味を示し、音楽ではベートーヴェンやヘンデルを愛した。高校時代には白樺派に傾倒し、志賀直哉の『暗夜行路』に影響を受けて短編小説を書いたことがある他、紹介状も持たず武者小路実篤に会いに行き、武者小路の書斎で1時間ほど面談したこともある[11]。
幼い子供を誘拐しては鍋で煮込んで食べる魔法使いの話を叔父から何度も聞かされたことにより、小学生の頃にはすでに人肉を食することに興味を抱いていたといわれ、高校時代には自ら精神科医にたびたび相談したが取り合ってもらえなかった。
佐川の異常な嗜好はやがて表に現れることになる。和光大学在学時代には中年のドイツ人女性宅に人肉食目的で無断侵入し逮捕されたが、父親が支払った示談金により、告訴はされなかった。
1976年(昭和51年)、関西学院大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。
フランス留学
1977年(昭和52年)からフランスに留学し、1980年(昭和55年)、パリ第3大学大学院比較文学専攻修士課程修了。引き続き同大学院博士課程に在籍していた1981年(昭和56年)6月11日、佐川は同大学のオランダ人女性留学生(当時25歳)が自室を訪れた際、彼女を背後から騎兵銃で撃って殺害。屍姦の後、解体し写真に撮り、いくつかの部分の肉を食べた。
そのあと佐川は女性の遺体を遺棄しようとしているところを目撃されて逮捕され、犯行を自供したが、取調べにおける「昔、腹膜炎をやった」という発言を通訳が「脳膜炎」と誤訳したことから[12]、精神鑑定の結果、心神喪失状態での犯行と判断され、不起訴処分となった。
その後、アンリ・コラン精神病院に措置入院されたが、この最中にこの人肉事件の映画化の話が持ち上がる。佐川は劇作家の唐十郎に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回芥川賞を受賞する。
日本帰国後[編集]
1984年(昭和59年)に日本へ帰国し、精神病院である東京都立松沢病院に入院した。同病院での診察では、佐川は人肉食の性癖は持っておらず、フランス警察に対する欺瞞であったという結論であった。副院長の金子嗣郎は、“佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないか”としている[13]。日本警察もまったく同じ考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察が「不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡すことはできない」として拒否した。
同院を15カ月で退院した佐川は、マスコミに有名人として扱われ、小説家になった。その頃、日本の病院と警察がそろって刑事責任を追及すべきという方針であったのに、フランス警察の方針により、それが不可能になったことから、社会的制裁を受けるべきだという世論が起きた[14]。両親もこの事件の結果、父親は会社を退職することになり、母親は神経症の病気を患ったという。
社会復帰後、1989年(平成元年)の宮崎勤逮捕では、猟奇犯罪の理解者としてマスコミの寵児となり、忙しい時は月刊誌や夕刊紙など4紙誌に連載を持っていた[15]。印税収入だけで100万円に達した月があったほか、講演やトークショーにも出演して稼いでいた[15]。また、1本30万円のギャラでアダルトビデオに出演していたこともある[15]。
しかし2001年(平成13年)頃までにはほとんどの仕事が途絶え、生活に困って闇金に手を出すようになる[15]。「ぜんぜん反省しなくて、相変わらず白人女性と付き合う、それにはお金がいるというんで、初めのうちはおやじの財布から万札をぬいてたぐらいですけど、だんだんデッドヒートして、弟のチェロを売り飛ばしたり、絵を売り飛ばしたり、最後には(クレジット)カードまで使って」と自ら語っている[16]。1993年に知り合ったドイツ人男性から白人女性2名を紹介されるが、金蔓として利用され共に海外旅行を楽しんでいた矢先に、佐川の過去が露見したため絶交されたという[16]。
2005年(平成17年)1月4日に父が死去。翌日に母が自殺[15]と週刊誌で報じられたが、実弟は否定している[10]。当時、佐川は闇金の取立てに追われて千葉県に逃げていたため、両親の死に目に会えず、社葬という理由で葬儀への出席も断られた[15]。その後、親の遺産で借金などを返し、2005年(平成17年)4月に公団住宅に転居[15]。千葉県に住んでいた頃は、持病の糖尿病が悪化し、生活保護を受けていたが、2006年(平成18年)のインタビューでは「現在は受けていません」と語っている[15]。
過去には500通ほどの履歴書を書き、会社回りをしたものの、ことごとく採用を拒否されているという[15]。一度だけ「本名で応募してくる根性が気に入った」と採用決定された語学学校もあったが、職員たちの反対を受けて不採用となる[15]。小説を執筆しているが、「どこの出版社からも取り上げられない」と語っている[15]。
2010年のインタビューでは「もう白人女性は卒業した。今は日本人女性、特に沖縄の女性、ちゅらさん。食欲を感じます」と発言している[16]。
2013年11月に脳梗塞で倒れて救急搬送され、歩行困難となり、実弟の介護を受けつつ年金と生活保護で暮らしていることが2015年に報じられた[17]。2018年6月には誤嚥性肺炎を発症して入院したことが2019年に実弟が明らかにした[18]。
2019年7月12日にパリ人肉事件を撮ったドキュメンタリー映画『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』が公開され、第74回ヴェネチア映画祭でオリゾンティ部門審査員特別賞を受賞した。
2022年11月24日、肺炎のため、東京都内の病院で死去。73歳没。訃報は同年12月1日に公表された[19][20]。
思想
「男女間の愛は幻想であり、そのことがすべての過ちの原因になりうる。人は錯覚に基づき、感じ、考え、行動している。その錯覚が、人間しか創造し得ない膨大な幻想を生み出しているとしたら、愛の過ちは素晴らしい人類への贈り物である。愛そのものが幻想なら、自分自身は、案外、愛の真実の姿を典型的に、もっとも過激に生きているのかもしれない」と述べている[21]。
エピソード
- ザ・ローリング・ストーンズが佐川のパリ事件を歌にしている。1983年(昭和58年)の12インチシングル「Too Much Blood」がそれである(12インチシングルとしては日本では未発売)。事件発覚時にミック・ジャガーはパリに滞在しており、ニュースの全容を知り、ショックを受け、本作を書き下ろしたのだった。ジャケットはジャガーの驚愕の表情で、あたかもホラー映画の一場面のように恐ろしい映像である。通常バージョンは同年発売されたLP『アンダーカヴァー』B面1曲目にも収録されている(のちにCD化)。発売はいずれもローリング・ストーンズ・レコードから。
- 松沢病院退院後、大喜利に出演するためある落語会にゲストとして出席した。楽屋は佐川が一歩足を踏み入れてから、重苦しい雰囲気に包まれた。あたかも楽屋全員が声を潜めて佐川の行動を監視するようで、テーブルに置かれた差し入れのお菓子を前にして、佐川が「これ、私も食べてもいいですか?」と言葉を発すれば全員がビクリと反応した。佐川が「この肉、固すぎてあまりうまくないですねえ」と感想を述べたらまたビクリと反応するなど張り詰めた空気となっていた。しかし、この会の出演者の一人で、奇行で知られる落語家の川柳川柳は楽屋に到着し、初対面の佐川を見るなり肩を叩いて「よぉ!食道楽!」と明るく声をかけた。
- 特殊漫画家の根本敬が、結婚後東京圏西部の新興住宅地のマンションに引越ししたところ、すぐ近所に佐川が住んでおり、以後親交を結んだ。
- 修士号を持っており[注 2]、修士論文のテーマは「川端康成とヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」であったという。
家族
- 父・佐川明(栗田工業元社長、旧姓:森本)
- 母・佐川登美子(県一高女卒、佐川商店代表・佐川与一の長女)
- 弟・佐川純(油彩画家)
- 父方祖父・森本茂(朝日新聞論説委員)
- 母方祖父・佐川与一(貿易商、佐川商店代表、佐川善治郎の次男) 佐川善治郎の次男として1898年(明治31年)6月27日に生まれる[7]。1915年(大正4年)神戸一中を修業し、協信洋行勤務を経て1923年(大正12年)に現地開業。宗教は日蓮宗[7]。趣味はスキー[7]。
- 母方祖母・佐川眞弓(1901年(明治34年)生、広島県、田川俊之介の三女)
- 母方叔父・佐川満男(1939年(昭和14年)生、歌手・俳優)
著書
単著
- 『霧の中』話の特集、1984(彩流社、2002年)、ISBN 4-88202-746-1
- 『生きていてすみません-僕が本を書く理由』北宋社、1990
- 『サンテ』角川書店、 1990
- 『カニバリズム幻想』北宋社、1991
- 『蜃気楼』河出書房新社、1991
- 『喰べられたい 確信犯の肖像』ミリオン出版、1993
- 『華のパリ愛のパリ 佐川君のパリ・ガイド』アイピーシー、1994
- 『少年A』ポケットブック社、1997
- 『殺したい奴ら 多重人格者からのメッセージ』データハウス、1997
- 『まんがサガワさん』オークラ出版、2000
- 『霧の中の真実』鹿砦社、2002
- 『業火』作品社、2006
- 『極私的美女幻想』ごま書房、2008
- 『新宿ガイジンハウス』作品社 2012
共著
- 『狂気にあらず!? 「パリ人肉事件」佐川一政の精神鑑定』コリン・ウィルソン、天野哲夫 第三書館、1995
- 『饗 カニバル』コリン・ウィルソン 柳下毅一郎翻訳・構成 竹書房、1996
- 『パリ人肉事件 無法松の一政』根本敬 河出書房新社、1998
出演
- お天気お姉さん (1995-04-25・バンダイビジュアル)※オリジナルビデオ
- 実録SEX犯罪ファイル (1998-05-12・宇宙企画)※アダルトビデオ
- 神様の愛い奴(1998-07-18・ロフト・シネマ)※ドキュメンタリー映画
- エロのから騒ぎ〜Much Ado About Eros〜第2期生 (2003-08-24・V&Rプランニング)※アダルトビデオ
- カニバ パリ人肉事件38年目の真実(2017 監督/ルシアン・キャスティン=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル(fr))※第74回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門審査員特別賞
関連著書
- 佐川純『カニバの弟』
脚注
注釈
出典
- ^ 『カニバの弟』佐川純、東京キララ社、2019、p38、61
- ^ a b c d キャスト映画『カニバ』
- ^ 『カニバの弟』p49
- ^ 『少年A』佐川一政、ポケットブック社、1997、p36
- ^ 『少年A』p120
- ^ “人事興信録. 第25版 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年7月5日閲覧。
- ^ a b c d “大衆人事録. 近畿篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年7月5日閲覧。
- ^ 「バラバラ殺人犯の知られざる素顔 叔父の佐川満男も『あのおとなしい男が…』と絶句」『週刊明星』1981年7月9日号、集英社
- ^ 本橋信宏『素敵な教祖たち サブカルチャー列伝 業界カリスマ17人の真実』コスモの本、1996年、p.156。インタビューでの佐川一政の発言による。
- ^ a b パリ人肉事件・佐川一政を介護する弟が実名告白「バカな奴だけど、絶縁できなかった」アエラ・ドット・ネット、2019.5.23
- ^ 佐川一政『生きていてすみません』(水栄社)
- ^ 鈴木邦男『続・夕刻のコペルニクス』扶桑社、1998年、p.171
- ^ 『Tokyo Journal』1992年9月号
- ^ 『週刊マーダーケースブック』2号、デアゴスティーニ、1995年
- ^ a b c d e f g h i j k 『週刊新潮』2006年2月23日号。
- ^ a b c VICE Japan 佐川一政 人を食った男 2/2 - YouTube
- ^ 『宝島』2015年8月号
- ^ 映画『カニバ』を機に知ったパリ人肉事件・佐川一政さんの近況 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/02a53c1561732ed8023270bab8d1ee4e7b6c9b76 Yahoo!
- ^ 『佐川一政氏永眠のお知らせ』(プレスリリース)東京キララ社、2022年12月1日。2022年12月1日閲覧。
- ^ “「パリ人肉事件」佐川一政氏が死去 73歳 肺炎のため 弟・佐川純氏らが報告”. スポーツニッポン. (2022年12月1日) 2022年12月1日閲覧。
- ^ 「コラムニスト」第3号(1992年1月15日、東京三世社)
関連項目
パリ人肉事件(パリじんにくじけん)は、1981年(昭和56年)6月11日に、フランスで起こった猟奇殺人事件である。犯人である日本人留学生の佐川一政が、友人であるオランダ人女性を射殺し、屍姦後に彼女の肉を食べたというもの。
経緯
1981年6月11日、フランスの首都、パリに留学していた日本人留学生佐川一政(当時32歳)が友人のオランダ人女性留学生(当時25歳)を自宅に呼び出し、背後からカービン銃で射殺した。佐川は衣服を脱がせ屍姦したあと遺体の一部を生のまま食べ、また遺体を解体し写真を撮影して遺体の一部をフライパンなどで調理して食べた。
6月13日、残った遺体をスーツケースに収め、ブローニュの森の池に捨てようとしたところを目撃され逃亡。目撃者が遺体を発見し警察に通報し、2日後に逮捕された。
なお、この事件以前に、佐川は日本でも近隣に住むドイツ人女性を食肉目的で襲い逮捕されている。事件は父親の提示した示談金で告訴は取り下げられている。また、佐川は幼少の頃から人肉食の欲求が芽生えたと語っている。
佐川は犯行を認め裁判では心神喪失であったとして不起訴処分で無罪となり、フランス国内の精神病院に入院する。翌年、帰国し東京都立松沢病院に1年間入院した。病院側の診断結果は、佐川は人肉食の性癖など一切なく、フランス警察に対する欺瞞であるというものであった。同院副院長(当時)の金子医師は、佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないかとしている。日本警察も全く同様の考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針(『週刊マーダーケースブック』2号、デアゴスティーニ、1995年)であったが、フランス警察が不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡すことはできないとして拒否した。
その他
- この事件の被害者の遺体写真を掲載したフランスの週刊誌「パリ・マッチ」が発売禁止処分を受けた。
- 作家唐十郎が佐川と文通した手紙を書籍化した「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)は、第88回芥川賞を受賞した。
- 事件後すぐの1981年に東映が唐十郎監督で『ブローニュ』というタイトルで映画化しようとしたことがある[1]。唐は「事件同様、衝撃的な作品にするよ。来年(1982年)6月頃には撮影に入りたい。オレとしてはパリに出かけて現場を踏まねば気がすまないし、製作費は3億円ぐらいは必要だと思う。いま、キャスティングを慎重に進めている最中」などと話していたが、唐は1976年の監督デビュー作『任侠外伝 玄海灘』(配給ATG)の撮影で本物のピストルをぶっ放して罰金刑を食らった前科もあり、内々に交渉を受けた佐川役の主演候補がいずれも尻込みし難航した[1]。その後「佐川君からの手紙」を寺山修司が脚色し、大島渚が監督する計画が進んだが[2]、寺山が1983年5月4日に亡くなり、結局、実現に至らなかった。
- 1991年 太田出版より出版された『イカす!おたく天国』の著者、宅八郎との対談にてパリ人肉事件の記事が掲載。この中で、佐川は「料理は全くしない。あの時だけです」と明かしている。
- フランスの小説家ジャン・エシュノーズは2020年1月刊行の小説『ジェラール・フュルマールの人生』のなかで、主人公の住むエルランジェ通りで起きた事件のひとつとしてこの事件を紹介している。
この事件を元にした作品[編集]
- 音楽
- ローリング・ストーンズ/「トゥー・マッチ・ブラッド」 - アルバム『アンダーカヴァー』(1983年)収録
- 書籍
- 佐川君からの手紙 - 作家唐十郎との手紙のやり取りを出版化した作品
- 狂気にあらず!? 「パリ人肉事件」佐川一政の精神鑑定 - コリン・ウィルソン、天野哲夫、佐川一政
- パリ人肉事件 無法松の一政 - 佐川一政、根本敬
- カニバの弟 - 佐川純
- 映画
- 愛のかたち(1989) - イタリア映画
- カニバ パリ人肉事件38年目の真実(2017) - 第74回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門審査員特別賞
- ドキュメンタリー
「パリ人肉事件」佐川一政氏が死去 73歳 肺炎のため 弟 ...
http://tokumei10.blogspot.com › 2022/12
2022/12/01 — フランス留学中の1981年に「パリ人肉事件」を引き起こし、世界を震撼させ、その後、作家となった佐川一政(さがわ・いっせい)氏が11月24日、肺炎の ...
平岡 杉山 三島 玄洋社 近江 ユダヤ 佐川君@パリ人肉事件
http://tokumei10.blogspot.com › 2014/04 › blog-post
2014/04/01 — 1981年6月11日、フランスの首都、パリに留学していた日本人留学生佐川一政(当時32歳)が友人のオランダ人女性留学生(当時25歳)を自宅に呼び出し ...
青山みつことクーデンホーフ光子の英語WIKIに友愛すべき事実 ...
http://tokumei10.blogspot.com › 2012/06 › wiki
2012/06/21 — 佐川一政 - Wikipedia via kwout. 聖ミカエル教会 戦後の混乱時、日本の窮状 ... それに佐川一政の事件後の収容所と精神病院でのインタビュー載ってます ...
his uncle was eaten by CANNIBALS
2024年4月19日金曜日
Hello my friend, we meet again. It's been a while where should we begin...Feels like forever
JOSEPH FIEGLEMANAMBROSE J FINNEGANDOMENICK P FIORANIJOSEPH FIEGLEMANAMBROSE J FINNEGANDOMENICK P FIORANIJOSEPH FIEGLEMANAMBROSE J FINNEGANDOMENICK P FIORANIhttps://jyado.blogspot.com/2024/04/hello-my-friend-we-meet-again-its-been.html
Supertramp - Breakfast in America (Live In Paris '79)
2024年4月14日日曜日
「Total Eclipse of the Heart」and「The Logical Song」と言う名のマジカルタイムカプセル
なるほどね、解ったよ、中の人!
2024年4月13日土曜日
つけびしてけむりよろこぶいなかもの
- The scene in which Heston's character watches Woodstock inspired Joel Hodgson to create Mystery Science Theater 3000.[31]
https://jyado.blogspot.com/2024/04/are-you-ready-to-rock.htmlhttps://jyado.blogspot.com/2024/04/blog-post_42.htmlBreakfast in America is the sixth studio album by the English rock band Supertramp, released by A&M Records on 29 March 1979.[5] It was recorded in 1978 at The Village Recorder in Los Angeles. It spawned three US Billboard hit singles: "The Logical Song" (No. 6), "Goodbye Stranger" (No. 15), and "Take the Long Way Home" (No. 10). In the UK, "The Logical Song" and the title track were both top 10 hits, the only two the group had in their native country.[6]
https://jyado.blogspot.com/2024/04/total-eclipse-of-heartandthe-logical.html
>聖ミカエル学園
返信削除神戸じゃなくて、鎌倉なんですね
著名な卒業生
西岡徳馬(小学校)
堺正章(小学校)
前田美波里(小学校)
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Aえ!プレイスやねwww
返信削除アクティビア・プロパティーズ投資法人
主な保有物件は以下の通り。
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東急プラザ表参道原宿
東急プラザ銀座(底地)
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